音大に入るまで、特にその直前は、
まさに『ヴァイオリン漬け』の日々だった。
朝から晩までヴァイオリンと一緒だった。
 
決して練習は好きではなかったけれど、
無謀な目標を前にしての不安と焦燥に塗れた時間が、
どちらかというと心地よくさえあって…。
今は、あんな時間、絶対に嫌だけれど。
 
大学に入るとまた、朝も夜もない、
絵に描いたような『音楽漬け』の生活になった。
 
とはいえ、学ぶのは、
“音楽”だけではなく、“演奏法”だけでもない。
 
個人レッスンは週一回。
オーケストラも同様、選択の室内楽も同様。
そのための練習は毎日する訳だけれど、
楽器を弾いている時間は意外に少ない。
 
一日の大半が、演奏以外の『学問』で埋まるという現実。
まったく音楽に関係ない(と思える)授業があったりもして、
その予想外な状況に、戸惑いを感じたことを覚えている。
 
「絶対パレストリーナの曲なんて弾かないよ」
あくびを噛み殺しながら受けた“西洋音楽史”。
 
「周波数が何の役に立つんだろう」
眉間にしわを寄せながら受けた“音響物理学”。
 
「留学するときには必要かなぁ」
溜息を吐きながら受けた“語学”。
 
なんて情けない。なんて不遜。
これ以上ない位、素晴らしい教師陣だったのだ。
本当にもったいないことをした。
あの時間に戻れるものなら、戻りたい。
 
唯一つの救いは、ブツブツ言いながらも授業に出ていたことだ。
その遺産である小さな小さな知識の断片が、今、
どれだけ助けになっていることか。
 
 
弾く。弾く。弾く。弾く。弾く。
 
当時、「弾けてなんぼ」的雰囲気があったのも確かだが、
なにしろ、凄い先輩・同輩・後輩に囲まれていたから、
少しの時間でも練習して、少しでもいいから成長したかったのだ。
 
ところが、受験対応でないレッスンが始まると、
あれ?と思う―「『弾くだけ』では絶対的に何か足りないらしい」
 
こう弾くああ弾くではない課題が、
次から次へと、師の口から飛び出してくる。
 
―著名演奏家の演奏をできるだけたくさん聴きなさい。
「他人の演奏を聴くな」と言ってもらえるのは、
ある程度の基礎的な重要情報を蓄えてからのことである。
 
―音源のフィンガリングやボウイングをチェックしなさい。
え? 音で? 音だけで? 
今は映像情報も豊富。でも耳を鍛えるのにはこの方法がよい。
 
―真似できるものならしてみなさい。
結果が物真似になるのはダメだが、模倣は最高の勉強法である。
『弾き分ける』という作業は、間違いなくテクニックの拡大に繋がる。
 
―スコアを買ってオーケストラパートを勉強しなさい。
「全体像が掴めていないということは、自分が何をしているのかも
 分かっていないということでしょう?」…おっしゃる通りです。
 
―課題曲、その作曲家の母国語を聞きなさい。
「発音が全然違うのよ」「ニュアンスがねぇ」
「ヴァイオリンはそれを表現できる楽器なのに」…耳が痛い。
 
―その時代や国の気配や香りを知る努力をしなさい。
旅番組を見るのでもいい、映画を見るのでもいい、
本を読むのでもいい、絵を見るのでもいい、「触れろ」と。
 
『弾かない時間』にすること。
『弾かない時間」を作ってでもすべきこと。
 
 
でも。だから。
いつも、いつまでも悩むのだ。
どれだけ勉強すればいいのだろう?
どこまで勉強すればいいのだろう?と。
 
「ちょっと時間が掛かったけど、バッハの曲、全曲聴いたわ」
師は、ニコニコと事もなげに言う。
一日一曲聴いても、ざっと3年掛かる…。
《無伴奏》全曲聴いただけで疲れ切ってしまうようではダメだと?
 
「モーツァルトのヴァイオリン曲、手に入る楽譜は全部弾いてみたわよ」
先輩は、それが至極当然のことのように言う。
譜読みが間に合わないとか愚痴っている場合ではないらしい。
 
「ラヴェル弾くから、ちょっとパリに行ってきた」
同輩は、おみやげだと凱旋門の絵葉書をくれる。
悔しくて、旅行ガイドを片手にエクレアをやけ食いする。
 
 
『曲がすべて』
曲にすべてがある。曲にすべてを込める。
そんな演奏ができるようになるのは、いつ?
 
ヴァイオリン―長い時代を生き抜いてきた楽器だ。
特に手に入れなければいけないものが多い。
 
一体、何人の作曲家が、
どれだけヴァイオリンのために曲を書いてきたのか? 
数えたくないし、数えたくもない。
 
すべてを知ることなんて、できる訳がない。
いや、すべてどころか…。
底なし沼に足を踏み入れ、絶望する小鹿の気分だ。
 
 
気が置けないアマチュアの友人たちと、
年に数回、アンサンブルの勉強会をしている。
本番を目標としない純粋に「勉強する」ためだけの会。
 
課題曲は主にモーツァルトの弦楽四重奏曲。
(モーツァルトの弦楽四重奏曲だけでも20曲を超える…はあぁ)
 
あらかじめ楽譜を配り、各自練習をしておく。
事前準備の一環として、集まれるメンバーだけで、
CD&DVDの聴き(見)比べやスコアリーディングなどの座学も入れる。
 
勉強会当日は、3~4グループに分かれ、
それぞれ1~2時間の練習時間が与えられる。
他グループが練習している間は、それを「見て」勉強する。
「弾く」だけではなく「聴いて学ぶ、見て学ぶ」、
これがこの会の重要な目的であり課題のひとつでもある。
 
回数を重ね、それぞれ多くを学んできているが、
そういった成果とは違った興味深いデータも得ている。
 
例えば、
グループごとそれほど技術差がある訳ではないのに、
1グループ目、2グループ目と進んでいくに連れ、
初めの「通し」の完成度が高くなっていく。
みな、初顔合わせ、初音出し、初通しなのに。
 
例えば、
最後までボロボロだった1グループ目が、
その後一切音出しをせず、他団体を鑑賞していただけなのに、
通し発表のときには何故か、驚くほど上手くなっている。
楽器に触れることなく数時間過ごして、いきなりの本番なのに。
 
「弾いていなくても上手くなれる」―耳で学び、目で学び、頭で学ぶ。
 
 
歌手は休養をとるとき、歌を聴いてはいけないそうだ。
歌を聴くと自然に声帯が反応して休養にならないから。
 
ヴァイオリン弾きも同じだ。
 
ヴァイオリン曲の鑑賞中、手がぴくぴくしたり、
聴くだけで、頭が疲れたり身体がぐったりしたり、
そんな経験、思い当たるのでは?
 
結論=イメージトレーニングや座学は本当に効果がある。
 
ヒトって凄い。
 
 
勉強会で、毎回、問題として取り上げられるのが、
『モーツァルトの音』『モーツァルトの弾き方』である。
 
「それ、『モーツァルトの音』じゃないんだよね」
学生時代、苦い顔で先輩に言われたこの一言は未だに忘れられない。
「ちゃんと勉強した? いっぱい聴いた?」
 
そのつもりで、いろいろな演奏家のモーツァルトを聴けば、
「異端」と批判を受けるようなものにでさえ、共通するものがあることに気付く。
 
『モーツァルトの音』『モーツァルトの弾き方』
そんなものがあるのかと思うが、あるのだから仕方がない。
 
ヴァイオリン弾きが忘れてはならないのは、
とことん音色を追求できる楽器を手にしているということ。
 
他の楽器ではできないことが、できる。
発音然り、持続音然り、語尾処理然り。
 
ヴァイオリンの特権。ヴァイオリン弾きの特権。
 
その気になれば、《バッハのメヌエット》を、
モーツァルト風に弾くことも、ベートーヴェン風に弾くことも、
ブラームス風に弾くことも、フランスの香り漂わせて弾くことだってできる。
 
 
先輩は言う。
「『自分のものにする』という言葉の意味を勘違いするな」
「『個性』と単なる『弾き癖』を一緒にするな」
「『自由』と『勝手』を履き違えるな」
 
そして、加えて言う。
「作曲家へ敬意を払えないのならクラシックは弾くんじゃない」
「偉大な演奏家たちが何を残してくれたのか、しっかり聴け」
 
 
―マニアmania
あるひとつのことに(異常に)熱中すること。また、その人。熱狂者。
 
―フリークfreak
あるひとつのことに取り憑かれたように夢中になっている人。何かに熱狂している人。
 
―おたくodaku (明確な定義はないが…ある記述では)
特定の分野・物事にしか関心がなく、そのことに異常なほど詳しいが社会的な常識には欠ける人。
 
言葉の意味も、その使い方も、時代と共に変わる。
「『マニア』に対しては肯定的傾向があり、『おたく』や『フリーク』は否定的な意味合いが強い」
こういった意見も、もう古い?
 
何にしろ、
弾いていない時間をもヴァイオリンに捧げようという我々は、
多分、このどれかに入るのだろう。
 
それにしても、未だに先が見えない。
まったく見えない。
 
まあ、頑張れるだけ頑張ってみよう。
区切りは時間が付けてくれるだろう。
 
さて。
まずは、休憩かな。

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第63回 弾かないという選択

© 2014 by アッコルド出版