音大に入るまで、特にその直前は、
まさに『ヴァイオリン漬け』の日々だった。
朝から晩までヴァイオリンと一緒だった。
決して練習は好きではなかったけれど、
無謀な目標を前にしての不安と焦燥に塗れた時間が、
どちらかというと心地よくさえあって…。
今は、あんな時間、絶対に嫌だけれど。
大学に入るとまた、朝も夜もない、
絵に描いたような『音楽漬け』の生活になった。
とはいえ、学ぶのは、
“音楽”だけではなく、“演奏法”だけでもない。
個人レッスンは週一回。
オーケストラも同様、選択の室内楽も同様。
そのための練習は毎日する訳だけれど、
楽器を弾いている時間は意外に少ない。
一日の大半が、演奏以外の『学問』で埋まるという現実。
まったく音楽に関係ない(と思える)授業があったりもして、
その予想外な状況に、戸惑いを感じたことを覚えている。
「絶対パレストリーナの曲なんて弾かないよ」
あくびを噛み殺しながら受けた“西洋音楽史”。
「周波数が何の役に立つんだろう」
眉間にしわを寄せながら受けた“音響物理学”。
「留学するときには必要かなぁ」
溜息を吐きながら受けた“語学”。
なんて情けない。なんて不遜。
これ以上ない位、素晴らしい教師陣だったのだ。
本当にもったいないことをした。
あの時間に戻れるものなら、戻りたい。
唯一つの救いは、ブツブツ言いながらも授業に出ていたことだ。
その遺産である小さな小さな知識の断片が、今、
どれだけ助けになっていることか。
☆
弾く。弾く。弾く。弾く。弾く。
当時、「弾けてなんぼ」的雰囲気があったのも確かだが、
なにしろ、凄い先輩・同輩・後輩に囲まれていたから、
少しの時間でも練習して、少しでもいいから成長したかったのだ。
ところが、受験対応でないレッスンが始まると、
あれ?と思う―「『弾くだけ』では絶対的に何か足りないらしい」
こう弾くああ弾くではない課題が、
次から次へと、師の口から飛び出してくる。
―著名演奏家の演奏をできるだけたくさん聴きなさい。
「他人の演奏を聴くな」と言ってもらえるのは、
ある程度の基礎的な重要情報を蓄えてからのことである。
―音源のフィンガリングやボウイングをチェックしなさい。
え? 音で? 音だけで?
今は映像情報も豊富。でも耳を鍛えるのにはこの方法がよい。
―真似できるものならしてみなさい。
結果が物真似になるのはダメだが、模倣は最高の勉強法である。
『弾き分ける』という作業は、間違いなくテクニックの拡大に繋がる。
―スコアを買ってオーケストラパートを勉強しなさい。
「全体像が掴めていないということは、自分が何をしているのかも
分かっていないということでしょう?」…おっしゃる通りです。
―課題曲、その作曲家の母国語を聞きなさい。
「発音が全然違うのよ」「ニュアンスがねぇ」
「ヴァイオリンはそれを表現できる楽器なのに」…耳が痛い。
―その時代や国の気配や香りを知る努力をしなさい。
旅番組を見るのでもいい、映画を見るのでもいい、
本を読むのでもいい、絵を見るのでもいい、「触れろ」と。
『弾かない時間』にすること。
『弾かない時間」を作ってでもすべきこと。
☆
でも。だから。
いつも、いつまでも悩むのだ。
どれだけ勉強すればいいのだろう?
どこまで勉強すればいいのだろう?と。
「ちょっと時間が掛かったけど、バッハの曲、全曲聴いたわ」
師は、ニコニコと事もなげに言う。
一日一曲聴いても、ざっと3年掛かる…。
《無伴奏》全曲聴いただけで疲れ切ってしまうようではダメだと?
「モーツァルトのヴァイオリン曲、手に入る楽譜は全部弾いてみたわよ」
先輩は、それが至極当然のことのように言う。
譜読みが間に合わないとか愚痴っている場合ではないらしい。
「ラヴェル弾くから、ちょっとパリに行ってきた」
同輩は、おみやげだと凱旋門の絵葉書をくれる。
悔しくて、旅行ガイドを片手にエクレアをやけ食いする。
『曲がすべて』
曲にすべてがある。曲にすべてを込める。
そんな演奏ができるようになるのは、いつ?
ヴァイオリン―長い時代を生き抜いてきた楽器だ。
特に手に入れなければいけないものが多い。
一体、何人の作曲家が、
どれだけヴァイオリンのために曲を書いてきたのか?
数えたくないし、数えたくもない。
すべてを知ることなんて、できる訳がない。
いや、すべてどころか…。
底なし沼に足を踏み入れ、絶望する小鹿の気分だ。
☆
気が置けないアマチュアの友人たちと、
年に数回、アンサンブルの勉強会をしている。
本番を目標としない純粋に「勉強する」ためだけの会。
課題曲は主にモーツァルトの弦楽四重奏曲。
(モーツァルトの弦楽四重奏曲だけでも20曲を超える…はあぁ)
あらかじめ楽譜を配り、各自練習をしておく。
事前準備の一環として、集まれるメンバーだけで、
CD&DVDの聴き(見)比べやスコアリーディングなどの座学も入れる。
勉強会当日は、3~4グループに分かれ、
それぞれ1~2時間の練習時間が与えられる。
他グループが練習している間は、それを「見て」勉強する。
「弾く」だけではなく「聴いて学ぶ、見て学ぶ」、
これがこの会の重要な目的であり課題のひとつでもある。
回数を重ね、それぞれ多くを学んできているが、
そういった成果とは違った興味深いデータも得ている。
例えば、
グループごとそれほど技術差がある訳ではないのに、
1グループ目、2グループ目と進んでいくに連れ、
初めの「通し」の完成度が高くなっていく。
みな、初顔合わせ、初音出し、初通しなのに。
例えば、
最後までボロボロだった1グループ目が、
その後一切音出しをせず、他団体を鑑賞していただけなのに、
通し発表のときには何故か、驚くほど上手くなっている。
楽器に触れることなく数時間過ごして、いきなりの本番なのに。
「弾いていなくても上手くなれる」―耳で学び、目で学び、頭で学ぶ。
歌手は休養をとるとき、歌を聴いてはいけないそうだ。
歌を聴くと自然に声帯が反応して休養にならないから。
ヴァイオリン弾きも同じだ。
ヴァイオリン曲の鑑賞中、手がぴくぴくしたり、
聴くだけで、頭が疲れたり身体がぐったりしたり、
そんな経験、思い当たるのでは?
結論=イメージトレーニングや座学は本当に効果がある。
ヒトって凄い。
☆
勉強会で、毎回、問題として取り上げられるのが、
『モーツァルトの音』『モーツァルトの弾き方』である。
「それ、『モーツァルトの音』じゃないんだよね」
学生時代、苦い顔で先輩に言われたこの一言は未だに忘れられない。
「ちゃんと勉強した? いっぱい聴いた?」
そのつもりで、いろいろな演奏家のモーツァルトを聴けば、
「異端」と批判を受けるようなものにでさえ、共通するものがあることに気付く。
『モーツァルトの音』『モーツァルトの弾き方』
そんなものがあるのかと思うが、あるのだから仕方がない。
ヴァイオリン弾きが忘れてはならないのは、
とことん音色を追求できる楽器を手にしているということ。
他の楽器ではできないことが、できる。
発音然り、持続音然り、語尾処理然り。
ヴァイオリンの特権。ヴァイオリン弾きの特権。
その気になれば、《バッハのメヌエット》を、
モーツァルト風に弾くことも、ベートーヴェン風に弾くことも、
ブラームス風に弾くことも、フランスの香り漂わせて弾くことだってできる。
先輩は言う。
「『自分のものにする』という言葉の意味を勘違いするな」
「『個性』と単なる『弾き癖』を一緒にするな」
「『自由』と『勝手』を履き違えるな」
そして、加えて言う。
「作曲家へ敬意を払えないのならクラシックは弾くんじゃない」
「偉大な演奏家たちが何を残してくれたのか、しっかり聴け」
☆
―マニアmania
あるひとつのことに(異常に)熱中すること。また、その人。熱狂者。
―フリークfreak
あるひとつのことに取り憑かれたように夢中になっている人。何かに熱狂している人。
―おたくodaku (明確な定義はないが…ある記述では)
特定の分野・物事にしか関心がなく、そのことに異常なほど詳しいが社会的な常識には欠ける人。
言葉の意味も、その使い方も、時代と共に変わる。
「『マニア』に対しては肯定的傾向があり、『おたく』や『フリーク』は否定的な意味合いが強い」
こういった意見も、もう古い?
何にしろ、
弾いていない時間をもヴァイオリンに捧げようという我々は、
多分、このどれかに入るのだろう。
それにしても、未だに先が見えない。
まったく見えない。
まあ、頑張れるだけ頑張ってみよう。
区切りは時間が付けてくれるだろう。
さて。
まずは、休憩かな。
ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第63回 弾かないという選択


