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「おと、おっきぃ!」と、感心される。
「マイクいらないんですね」と、驚かれる。
「そんな小さな身体で」と、不思議そうに言われる。
 
楽器の見た目の大きさと音量は、必ずしも比例しない。
いろいろな感想を耳にすると、改めて気付く。
ヴァイオリンもまたそれを証明する楽器らしい、と。
 
弦楽器は、その構造や共鳴箱の大きさによって、
持ち分としての音量が、随分違う。
 
同じ打弦楽器でも、ツィンバロンとピアノでは全く音量が違うし、
撥弦楽器である箏や三味線、ウクレレやギター…、
擦弦楽器のヴァイオリン属、胡弓や馬頭琴…、
音色による聞こえを差し引いても、その音量にはかなり差がある。
 
「ヴァイオリンって、弦が特別なんですか?」
そう、聞かれたこともある。
 
特別と言えば、特別だ。
音色、価格、耐久性…現代に至っては、
多様なニーズに対応すべく、数多の『特別』が出来上がっている。
そして、そのファクターに“音量”も含まれてはいる。
 
実際、ガット裸弦から新素材+金属巻線弦へという流れには、
音量に対する要求も大きく関与している。
ただ、どんなに音量アップに特化した弦であっても、
弦だけでは、大した音にはならない。
 
普段のヴァイオリンの音に慣れた人間には、
共鳴箱のない弦のみの音は、
捨てられた仔猫の鳴き声のように、
悲しいほど遠く、小さく、弱い。
 
 
「いい演奏をしたい」
「いい音を出したい」
 
それなりの対価を支払い、
よき弦を手にし、よき毛に替え、よき松脂を塗り、
ボウイング練習にも、力を入れる。
 
長年に渡る必死の努力と散財の末、
ようやく手に入れた “麗しき弦の振動”。
 
そうまでして、手に入れた“振動”は、
ちゃんと共鳴箱たるボディに伝わっているのだろうか?
 
それでなくても、一部は材に吸い取られる。
せっかくの振動を殺してはいないだろうか? 
無駄にしてはいないだろうか? 
 
楽器が鳴らないのは、響かないのは、大きな音が出ないのは、
自分の弾き方が悪いせいだと、弾き手は思いがちだ。
それは、少なからず当たっている。
 
でも、確認せずにはいられない。―「本当に楽器に問題はないか?」
 
こんな質問を投げ掛けずにいられないのは、
状態の悪い駒を見ることが多いからだ。
 
魂柱と共にその重要性を強く語られる―“駒”。
まさに、心臓部。
 
はじいたり、こすったりして真剣に作り上げた弦の振動を、
ボディに伝えているのは、誰でもない“駒”である。
 
楽器の能力を引き出せるかどうかは、駒に掛かっている。
 
だから、確認せずにはいられない。
「ちゃんとした駒が付いているか?」
「楽器に合わせて正しく調整・セッティングされているか?」
「駒の状態、その周囲の状況は悪くないか?」
「今、その能力を100%発揮できているか?」
 
 
「そうだ、楽器を買おう!」
楽器店に行く。予算を聞かれる。答える。
楽器が出てくる。弾いてみる。弾き比べてみる。
 
もちろん、音は大事だ。耳傍の音も、飛んでいく音も。
弾いたときの感触、レスポンス等々も大切。
毎日付き合うのだから、見た目も好みの方がよい。
 
その流れで、色や形が気になる附属品 “三点セット”
=ペグ&テールピース&顎当てに興味を持つ人はいる。
それらの材によって音が変わることを知っている人もいる。
 
弓も悩む。肩当ても悩む。ケースでさえ悩む。
アジャスターを気にする人さえいる。
 
では、駒は? 
 
「預かった楽器によい駒が付いていると、
黙って入れ替える悪徳業者もいるから気を付けて」
そんな注意をされたことがある。
弾き手の駒への無関心を象徴するかのような話だ。
(そんな事件は起きないと信じたいが…。)
 
市販されている楽器には、普通、その楽器に相応の駒が立ててある。
とはいえ、価格を抑えるために、
弦や駒などの附属品を安価なものにしている場合も少なくない。
それはそれで、どこかのタイミングで、
買い換えればよい話で、お互い納得尽くなら問題ない。
 
ただ、駒の価格はピンキリで、よいものは決して安くはない。
いざ交換ということになり、よい駒の相場を伝えると、
学生さんなどには「そんなにするんですか…」と嘆息されることがある。
 
しかし、駒は、弦や弓の毛ほど消耗品ではない。
問題があるなら、駒の交換はして損はない。
 
 
正しく流通しているものは、その質と価格が概ね比例している。
ただ、材やその制作過程を思い起こせば、
同じ価格でもひとつひとつが違うであろうことは想像に難くない。
 
木目、つくり、手触り、質感、重量感…
その見方・選び方を教われば、駒の差が見えてくる。
その性能は、実際に音を出さなくても、
充分な知識があれば、ある程度までは推測できるのだと知る。
楽器との相性があるならば、それは、その後の問題だ。
 
その駒を、それぞれの楽器に合わせ、
削り、立ち位置を定め、正しく立てる。
これは、弦楽器職人の仕事だ。
 
駒各部の厚さ、表面の角度や微妙なカーブ、
溝のあるトップのライン、その溝の位置
すべてがその楽器その楽器に合わせて削られ、調整される。
まさに、オンリーワンなのだ。
 
表板との接点=駒の脚の裏は、
表板のカーブにピッタリと張り付くように削られている。
その職人技には感動せずにはいられない。
 
駒上部の溝は、浅ければ振動を拾えず、深ければ振動を殺す。
溝と溝との間隔は、重音や移弦などの奏法に影響を及ぼし、
トップのラインは、指板から弦までの高さを決定するから、
これもまた、演奏に大きく関与する。
 
楽器が無言で出す要求に応えつつ、
持ち主の身体特性や演奏法、個性や好みに合わせた、
そんな駒に削り、整え、立てる。
凄い仕事だ。
 
 
じっと“駒”を見る。
小さく、薄く、その繊細なデザインも相俟って、
華奢な印象もなくはない。しかし、
その立ち姿は凛として美しく、どっしりと安定感がある。
 
ただ、4人の主君は我儘し放題。
日夜、従順な執事に、絶対的な圧力を掛け続け、
調弦の度に「こっちだ・あっちだ」と手を引っ張る。
 
「いってらっしゃいませ」と淡々と送り出したいのに、
ときには引き摺られそうになり、脚が浮くこともある。
そんな生活が続けば、老いて弱った執事なら腰も曲がる。
 
立ち位置のずれた駒を直すことは、素人には難しい。
傾いた駒を直すのだって、難しい。
一度腰が曲がった駒は、取り替えるしかない。
歪んだ駒も然り。
 
調弦などによって、僅かに傾く駒、
症状が軽いうちに直すことが望ましいのだが、
執事の無口さ故、症状が出ていることにさえ、
気付かないことも少なくない。
 
気付いても、「駒は触ってはいけない」という、
意味なくインプットされている世間の常識に阻まれ、
その気になればできるはずの簡単な対処法を施すこともなく、
ただただ「病院に行け」と頭ごなしに指示する。
ときには、放置。
 
専属の職人を雇えるほどの甲斐性はない。
足を運びたくても、早々通える訳でもない。
だとしたら、応急処置位は覚えるべきなのかもしれない。
そして、予防策も立てて、行動すべきなのだ。
 
松脂が溜まって、駒の溝がごきぶりホイホイ状態になっていないか?
松脂が降り積もって、駒の脚元を固めていないか?
松脂が埃を呼び寄せ、駒の表面を汚くコーティングしていないか?
…演奏後のたった一拭きが、楽器にとっては大きい。
 
 
「面倒臭いのイヤなんだ」
「まあ、音が出ればいいって感じ?」
そんな恐るべき台詞を聞いたことがあるから、断言はできないが、
多くの人が「いい音」で弾きたいと思い、
すべきことはしようと思っているはずだ。
 
問題は「何をどうすればいいか」だ。
 
学問としての理論を知る必要はないかもしれない。
ただ、楽器に関することならすべて、
例えば、その過程がどうなっているのか、
結果として何が起きるのか、どうなったら問題なのか、
問題が起きたときは、どう対処すればよいのか、
それ位は知っておきたいと思ってしまう。
出来ることは 自身で対処したいと。
 
今日も、生真面目執事の肩こりをほぐしながら、
自分に何ができるのかと考える。
何ならしてもよいのか、何をなすべきなのかと考える。
 
はてさて。
 
どこからがヴァイオリン弾きの領分?
どこまでがヴァイオリン弾きの領分?

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第62回 ヴァイオリン弾きの領分

〈駒~横から見る〉

適当に作られた安価な駒

丁寧に作られた某メーカーの駒

© 2014 by アッコルド出版

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