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その名を口にするときは、思わず知らず、

旧知の間柄のように、親しみを込めている。

ところが、彼のことについて語ろうとすると、

驚くほど、何も知らないことに気付く。

 

最初から遠い人なら、問題はない。

でも、彼はいつも、すぐそばにいる。

交響曲や弦楽四重奏曲を弾けば、その後ろに。

モーツァルトやベートーヴェンを弾けば、その横に。

 

それなのに、彼について知っていることと言えば、

勝手に頭に入り込んでいたメモ書き程度の情報と、

通り一遍に聞き流してきた聴覚情報、そして、

格別強い思い入れもなく弾き散らかしてきた苦い記憶。

それでなくても、彼の曲を演奏するチャンスはそう多くはない。

彼の名を思い出すきっかけも、彼自身の曲ではなかった。

 

モーツァルトの弦楽四重奏曲《不協和音》

― String Quartet No. 19 C-dur K. 465 "Dissonance"

縁あって、この曲をまた演奏することになった、その結果に過ぎない。

 

『ハイドンセット』と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲の最終曲。

そう、このセットはハイドンに献呈されたことから、その名を得ている。

 

W.A. Mozart(1756-1791)、そして、Franz Joseph Haydn(1732-1809)

モーツァルトとハイドンは、どんな関係だっただろう?

ハイドンは、どんな人物だっただろう?

 

ハイドン=“交響曲の父”“弦楽四重奏の父”

古典派を代表する作曲家であり、ドイツ国歌の作曲者でもある。

「パパ・ハイドン」― そう呼ばれてもきた。(温かい呼び名だ)

 

100曲を超える交響曲、70曲に及ぶ弦楽四重奏曲、作曲総数凡そ1000曲。

すべてが名作と言えるかどうかは分からない。

でも、知名度の高い曲も、演奏され愛される曲も多い。

『驚愕』『軍隊』『時計』『冗談』『ひばり』『五度』『皇帝』…、

こんなに、曲にニックネームを付けられた作曲家はいない?

 

それなのに、いや、だからだろうか。

いつまで経っても、思うようにハイドンに近付けないでいる。

 

 

ハイドン本人の書簡による自伝に、こういう文がある。

「(変声期を迎え聖歌隊の仕事を失って以来)、みじめにも8年の間、

子供を教えることで生計を立てなくてはなりませんでした」

この「惨めな」境遇にあった若きハイドンを救ったのがフュールンベルク男爵。

 

その彼は1755年の夏、ハイドン(23歳)を自分の別荘に招く。

そこには、ヴァイオリンを弾く司祭、ヴィオラ奏者の執事、

アルブレヒツベルガーというチェリストという面子が集まっていた。

 

男爵は、この楽友たちと演奏するための新しい作品をハイドンに書かせた。

これが、その後の70曲にも及ぶ弦楽四重奏曲群の出発点であり、

[ヴァイオリン2本+ヴィオラ+チェロ]という定型が生まれた瞬間であり、

ハイドンが“弦楽四重奏の父”と呼ばれる所以である。

 

ハイドンとモーツァルトの関係は非常に深い。

その関係性が、作品にはっきり出ているから面白い。

音楽にだけでなく、書くに至った経緯にも出ている。

それが“弦楽四重奏”という形式に顕著だったことも興味深い。

 

モーツァルトの『ハイドンセット』(1782-1785)は、

ハイドンの『ロシア四重奏曲op.33』(1781)に刺激を受け、書かれた。

 

それだけではない。遡ること、その十年前。

ハイドンの『太陽四重奏曲op.20』 (1772年40歳)に影響を受けて、

モーツァルトは『ウィーン四重奏曲』(1773年17歳)を書いている。

 

それぞれに事情はあったのだろうが、二人共にある、

この“弦楽四重奏10年の空白”についても考えずにはいられない。

 

ハイドンの作品は1762年以降、彼の弟ミヒャエルを介して、

モーツァルト家の人々に伝えられたとも言われている。

(ミヒャエルはザルツブルク宮廷の教会の楽長で、モーツァルト一家と親しかった)

互いの音楽を知ることは、その気になれば、充分に可能だった。

そしてそれは様々な形で、現実に行なわれた。

 

『ロシア四重奏曲』は「弦楽四重奏曲の古典主義的ソナタ形式を確立した」

と言われ、ハイドン本人も「全く新しい特別の方法で作曲した」と述べている。

この弦楽四重奏曲達が、モーツァルトに与えたものは大きかった。

 

モーツァルトが『ハイドンセット』に着手したのは、

ハイドンの『ロシア四重奏曲』が書かれた翌年1782年12月末日。

6曲すべてを書き上げたのが 1785年1月14日。

「速筆」と言われるモーツァルトが、なんと丸二年掛けている。

 

この間、他にも多くの曲を書いている。

忙しかったのだろうと、切って捨てることもできなくはない。

ただ、『ハイドンセット』が、そして“ハイドン”が、

彼にとっての「特別」だったことは、彼自身が書いた献辞を読めば分かる。

 

―1785年9月1日『ハイドンセット』初版(アルタリア版)に添えられた献辞

 原文イタリア語

「親愛なる友ハイドンに、自分の子供を広い世間に送り出そうと決心した父親は、それを、幸運にも自分の最上の友人となった高名の方の保護と指導に委ねるのが当然のことだと考えました。高名なお方、そして私のもっとも親愛なる友人よ、これが取りも直さず、私の六人の息子です。これらは、本当に永い辛い努力の結実ですが、私の幾人かの友達から与えられた希望―これによって私の努力がせめて幾分たりとも報いられたものと考える希望が、私を励まし、私に媚びて、これらの作品がいつかは私にとっての慰めになるだろうと思わせます。もっとも親愛なる友人よ、あなたが最近この都に滞在なさった折に、ご自身私について満足を表明して下さいました。そのように私をお認め下さったことで何より勇気づけられ、これらの作品をあなたに委ねても、まんざらご好意に値しないものではないと、見て頂けるものと思います。なにとぞこれをご嘉納くださって、その父とも案内者とも友ともなって下さいますように!今後私はこの子たちに対する一切の権利を、あなたにお譲りいたします。それゆえ、父の贔屓目が見逃したかもしれない過ちを、大目に見てやって下さり、そんな過ちがありましても、あなたの寛大な友情をこんなに大事に思っている私に対して、その友情をいつまでも続けてお持ち下さるよう、お願いいたします。衷心からあなたのもっとも誠実な友である W.A.モーツァルト」

 

モーツァルトは、1785年1月15日と2月12日、

ハイドンをウィーンの自宅に招き、これらの新曲を披露した。

 

 

1781年、25歳のモーツァルトは、

それまで仕えていたザルツブルク大司教との喧嘩別れをし、

音楽の都ウィーンでの、自活の道を選ぶ。

 

パトロンの経済的支援のない生活を選ぶことは、

当時の音楽家にとって、危険な賭けだった。

堅実な父は苦言を呈し、元に戻そうと手を尽くすが苦労は無となる。

その上、翌年には、これも父の反対を押し切っての結婚。

 

以前より高い給料、豪華なアパート、父の予想を裏切り、

当初のモーツァルトの自立生活は悪いものではなかった。

(残念ながら、その生活は徐々に辛いものとなり、

やがてモーツァルトの時は止まってしまう。

父の杞憂は現実となってしまった…。)

 

ときには一日おきに入るコンサートの仕事。

常に新曲が求められる時代だったのだから、いくら速筆とはいえ、

作曲に追われるモーツァルトは大変だったに違いない。

 

忙しい中、それでも書かずにいられなかったのが、

「モーツァルトの作品の中で最も個人的な作品」

…そう言われる『ハイドンセット』だったのだ。

 

モーツァルトは言う。

「それは義務だったのです。四重奏曲をどうやって書かねばならないかを、私はハイドンから学んだのですから」

 

 

その性格は、真逆とさえ言われる。そして、その生活も。

互いに惹かれあったのは、その相違からくるのだろう、と。

その作品の根本はまったく異なるものである、そう語られる。

ただ、そこには何か…何か同じものがある。

シンプルさの中に封じ込められた、深く複雑な何かが。

 

二人は年齢差を気にせず、友情を育んだ。

 

モーツァルトのハイドンに触れた手紙の一文には、愛情と尊敬が満ちている。

―1784年4月24日付 父への手紙 (モーツァルト28歳)

「…それから今度、ヨーゼフ・ハイドンの弟子でプライエルという人が四重奏曲を出しました。まだご存じないなら、何とかして手に入れてごらんなさい。それだけの値打ちがあります。非常によく書かれていて、気持ちのいい曲です。お聴きになれば、先生が誰だか、すぐわかります。プライエルがそのうちハイドンの跡を継ぐことができれば、音楽にとって結構な、幸いなことです」 (『モーツァルトの手紙』柴田治三郎編訳 岩波文庫)

 

『ハイドンセット』が試演されたときのハイドンの言葉を、

モーツァルトの父レオポルトが残している。

「ハイドン氏は私にこう言ってくれました。『私は誠実な人間として神にかけて申し上げますが、あなたのご子息は私の知る限り最も偉大な作曲家です。美についてのよい趣味をお持ちですし、優れた作曲技術を身につけておられます』」

 

ハイドンが晩年にこう言ったとの記述もある。

「モーツァルトの作品を聴くと何か必ず学ぶものがある」

「モーツァルトのクラヴィアの演奏を生涯忘れることができない。それは胸に響くものだった」

 

ロンドンでモーツァルトの訃報を聞いたハイドンは、友人への手紙にこう書き記す。

「私は家に帰りたい。私の友人たち皆を抱擁したい。ただ一つ残念なことは、あの偉大なモーツァルトが、もはやそこにはいないということです。彼が死んだなどと、とても信じられません。後の世の人は、これほどの才能の持ち主を、百年の間、再び見ることはできないでしょう」

 

24歳差の友人―「天才モーツァルト」と「遅咲きハイドン」。

 

モーツァルトがウィーンに落ち着き、

年に一度なり、ハイドンがウィーンに滞在するようになると、

二人は時間を見つけては、会っていた。

 

モーツァルトと親しかったマイケル・ケリーの証言。

「作曲家のステファン・ストレースの家では、ハイドンが第一ヴァイオリン、ディッタースドルフが第二ヴァイオリン、モーツァルトがヴィオラ、ヴァンハルがチェロを受け持ち、モーツァルトの弦楽四重奏曲が演奏された」

!!! どんな演奏だったのだろう?

 

 

ハイドン『太陽四重奏』(1772)→モーツァルト『ウィーン四重奏』(1773)

ハイドン『ロシア四重奏』(1781)→モーツァルト『ハイドンセット』(1782-1785)

その成立事情から、特に関連性は言われないが、

どちらもプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に献呈された

ハイドン『プロシア四重奏曲』(1787)→モーツァルト『プロシア王』(1789-1790)

 

…弦楽四重奏のキャッチボール。

 

モーツァルトにとっては、これが最後の弦楽四重奏曲となった。

1791年のモーツァルトの死後、二年間、

ハイドンは弦楽四重奏を書いていない。

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第59回 親愛なる友へ

© 2014 by アッコルド出版

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