楽器持参で、小学校などに赴くと、大抵、

生徒の数人は傍まで来て、じっと楽器を眺めていく。

「ヴァイオリンは大切なものらしい」的情報が出回っているらしく、

勝手に触るような子は、まずいない。素晴らしい。

 

何か聞いてみたいのだけれど、何を質問していいか分からない、

そんな感じの子もいて、「興味ある?」と尋ねるとウンウンと頷く。

キラキラお目々が、なんとも愛らしい。

 

かと思えば、何人かでドドドっと寄ってきて、開口一番、

「ねぇねぇ、この楽器、いくら?」

「これって、『すとらでぃばり』?」

「知ってる! 高いんでしょ、テレビでやってた」

「3億だぜ、3億」「すっげー」(ストラディの認知度高し!)

「モリモトさん、お金持ちなんだ」「.........」

 

こういうときは、どういう対応をするのが正解なのだろう?

「ストラディじゃないし、3億もしないの」

なんて、うっかり口にしようものなら、

「え? じゃあ、何なの? いくら? 100万? 5000万?」。

...敵は、非常に手強い。

後方には、実は聞いてみたいお母さん方も控えていたりして。

(たまに、その「お母さん」側だったりすることもある。笑)

 

楽器の値段について質問を受けることは、少なくない。

もちろん、購入を考えている人からの質問は多く、

それに対してアドバイスすることは、できなくはない。

 

とはいえ、「本当に3億の価値があるのか?」といった質問のように、

自分の中に答えはあっても、簡単には口にできないものもある。

 

"ヴァイオリンの価値"は、一言では語れない。

 

 

「『ヴァイオリンのニスの謎は解明されていない』ってホント?」

「『魔のヴァイオリン』っていうのがあるんだって?」

こんな質問も、たまにくる。

 

確かに、ヴァイオリンには、

"謎"や"秘密"といった言葉が付き纏うし、よく似合う。

それは多分、見た目に負うところも大きいだろう。

 

誰もが知っている木管楽器や金管楽器、その中にも、

非常に手が掛かった、貴重で高価な楽器もある。

例えば、巻き管からすべて手作りのフルート、

木の削り出しから組み立てまですべて手作業のオーボエ...。

ただ、それらをズラーッと並べてしまうと、情けなくも、

素人にはどれも、同じような工業製品に見えてしまったりする。

 

その点、ヴァイオリンは得をしている。

『ヴァイオリンは高価』イメージとも相俟って、

黄金に光り輝くヴァイオリンは、それはそれで、

(実は、大量生産の新品かもしれない)

渋く深みを増した色合いのヴァイオリンは、それはそれで、

(実は、ただ古くなっただけの安物かもしれない)

オールドもモダンも現代作品も、価格なども一切関係なく、

優美で、高雅な、"謎多き貴婦人"の態。

実質、管楽器よりも安価な大量製品の楽器でさえ、

「私、手作り品ですの」という顔をして、澄ましている。

 

その「神秘的な雰囲気」を強く醸し出す最大の要因は、

"ニス"ではないかと、勝手に思っている。

多種多彩な「色」「輝き」「感触」「味わい」...。

 

ヴァイオリンのニスに、"謎"はあるのか?

今の科学で、成分分析ができないはずはない。

誰がどうやって「名器」たちのニスを調べるのかという問題はあるが、

(削り取る訳にはいかないだろう...)

その気になれば、そういう意味での"謎"はなくなるはずだ。

 

ただ。

ならば、同じ工程が踏めるのか? 同じものが作れるのか?と問われれば、

何重もの意味(ニスの材、処方、作り方、塗り方、楽器との関係etc.)で、

それは難しいと、答えなければならないだろう。

 

それにしても、 解明できても、決して同じものは作れないのだから、

"謎"は"謎"のままでもよかろうが、そこは「人」。

何かと研究せずにはいられない。

そして、その研究成果を追っ掛けてしまう「人」。

 

ちょっと虚しい気もするが、なんかいい。

 

 

ニスを塗る前のヴァイオリンを、弾かせてもらったことがある。

白木のヴァイオリンに関しては、「雑音が多い」「音が小さい」...

こういった意見を目にすることもあるけれど、必ずしもそうではないようだ。

その楽器は、明るく開放的な音色で、音量も十分な大きさだった。

 

ニスの塗布、第一の目的は間違いなく"保護効果"。

実際、ニスの剥がれたところは弱い。(傷口のようなものだ)

 

ニスが、何らかの音響的効果をもたらしていることも確かだけれど、

恐ろしいことに(と素人は思う)、その肝心な"音色"は、

塗って仕上げてみないと、誰にも分からない。

 

陶工が、窯から出てきた出来損ないの茶碗を、

「ええい、こんな茶碗!」と割ってしまうように、

ニスを塗り終え、仕上げたヴァイオリンの音を聴いて、

その不本意な出来に怒ったリュータイオが、

「ええい、こんなヴァイオリン!」...という話は聞かない。

 

彼らが、“職人”として生きているからかもしれない。

どんな出来でも、我が子は可愛い?

それに、ヴァイオリンは弾いて、育ててみないと分からない。

 

よかった...。ヴァイオリン、無残な姿にならないで...。

(え? ゴミ箱行きのヴァイオリンもあったって? そんな...)

 

ニスの状態も楽器と同様、年月と共に変わっていく。

 

…やはり『そこに謎あり』。

 

 

"ヴァイオリンニス"は、材そのものが神秘的である。

 

― ニス varnish(バーニッシュ、ワニス)

"varnish"を「ワニス」と発音。

「和ニス」との混乱を避け「ニス」と呼ぶようになったという説あり。

「漆」と区別化するため「仮漆」の字を当てる。

 

― ワニス =透明塗料。一般的には、

「塗膜になる主成分(塗膜形成主要素)と副成分(塗膜形成助要素)を溶剤に溶解して作る。

塗膜形成主要素には重合油,天然樹脂,合成樹脂,セルロース,ゴムの誘導体など高分子物質が、

塗膜形成助要素には可塑剤,乾燥剤,硬化剤,増粘剤,防腐剤,防カビ剤等多種類の化合物がある」

 

ヴァイオリンニスの"レシピ"には、これに染料が加わる。

 

『Violin Varnish古典処方』なんて字面を見るだけで、

もう、ワクワクドキドキだが、

天然樹脂と天然染料、そのリストを眺めようものなら!

 

  ベンゾエ、アンバー、ダンマー、エレミ...、

   ジネプロ、ミルラ、マスティック...、

  サンダロ、サンダラック、オリバナム...、

  ガンボジ、カテキュー、ドラゴンブラッド...、

 

まるで呪文のよう...素敵過ぎる。

 

 

ヴァイオリンニスの処方や作り方については、専門家に任せるとして、

リュータイオが錬金術に使う「怪しげな物質」を幾つか紹介しよう。

 

― シェラック shellac

「樹木に寄生するラックカイガラムシが分泌する樹脂状物質から採取する。

『シェラック』といわれる樹脂と『ラックダイ』といわれる染料に精製・分離される。

木工、特に楽器製作には非常に重要な樹脂。漢語では「紫膠」「紫鉱」「臙脂」。

東南アジア、南アジアでラックカイガラムシを養殖、中国でも生産されている。

接着剤や剥離剤、また、柑橘類のワックス、錠剤や錠剤状の食品のコーティング材にも使用。

漢方では、抗菌剤・止血剤としても用いられていた。

奈良の正倉院には、今でもその当時のものが納められている。

塗料の『ラッカーlacquer』は、このラックカイガラムシに由来。

近縁種に『コチニール』という同じカイガラムシ科のものがあり、

こちらは染料・顔料のほか、清涼飲料水、酒、菓子類などの着色剤として使われている。

 

― マスティック Mastic

「ギリシャ南東部ヒオス島に群生するウルシ科コショウボク(マスティハの木)から採れる軟質の樹脂。

その貴重さから、コロンブスがその航海の時に大切な積み荷として扱ったと言われている。

現地では昔から健康にもよいと樹液をそのまま口に入れて噛む習慣があった(Mastic Gum)。

そのほか食品、薬品、歯磨き、香水、化粧品など60種以上の目的に使用されている。

ヴァイオリンニスには欠かせない材料」

 

― カテキュー Catechu

「インド原産のマメ科アカシア属の喬木、その樹木の芯材に含まれるタンニン酸を抽出して使う。

染色(茶系染料)、アラビアゴムの代用などに用いる。防腐性がある。

同種ペグノキの心材を煎じた汁から作られた「ペグ阿仙薬」は、

その効能から、胃剤・止血剤・うがい薬・口中清涼薬となる。

日本でも奈良時代から知られており、身近な例では『正露丸』『仁丹』などに配合されている」

 

こんな材料が、云十種類も!

 

 

慣れ親しんだヴァイオリンの工房は、とても落ち着く。

その幸福感は、楽器や楽器を作る道具たちに囲まれる幸せというだけでなく、

そう、紅茶や珈琲専門店、ハーブの店に入った時の感じに似ている。

 

工房に満ちた安らぎの香り。

考えてみれば、先に挙げた天然樹脂&天然染料たちは、

その多くが“香料”であったりもする。

 

ジンの香り付けに使う"ジネプロ"(ジュニパー)。

古くから宗教の儀式で薫香として使われてきた"ベンゾエ"(安息香)。

イエスが誕生した際、東方の賢者が黄金と共に携えていったという

貴重な香料="オリバナム(乳香:フランキンセンス)""ミルラ(没薬)

 

" ヴァイオリン工房が治してくれるのは、

楽器だけではないのかもしれない。

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第55回 リューテリアの錬金術師

© 2014 by アッコルド出版