「できないことはできないと、ちゃんと言いなさい」
そんな風に、叱られた記憶がある。
ヴァイオリンを学ぶという過程においては、
「できないこと」相手にジタバタする毎日、
自分には「できないこと」ばかりなのだと思い知らされ、
やがて、
「できもしないのにできる振りをしているとろくなことがない」
なんてことも学習して、
良くも悪くも、すっかり開き直るようになった。
とはいえ、ある年齢になると、
「できない」と人に告げることが、少し辛くなる。
ことヴァイオリンに関しては、特に。
「この曲はやったことがないから、すぐは弾けない」とか、
「技術的に難易度が高過ぎて、今は弾けない」とか、
そういうことは案外、言える。簡単に言える。
それは、『想定内』の要求に対しての答えであり、
これから何をどうすれば、いつ頃どうなるかを想像できるからだ。
困るのは、「できそうでできない」お願い。
ヴァイオリンが少々弾けるからといって、何でもできる訳ではない。
「他の楽器はできない?」...もちろん、それはそうなのだが、
情けないことに、できないことはそれだけではない。
ヴァイオリンを使ってできることにも、できないことがある。
「???」...いや、疑問に思われても仕方がない。
社会に出るまで、そんなことがあるなんて、自分も知らなかった。
仕事をするようになり、様々な『想定外』の要求をされるまでは。
それに関しては、"個人的な能力"という部分もあるが、
我が国の"一般的なヴァイオリン教育"という部分も関わってくる。
それをどう捉えどう考えるか、これは結構、難しい問題かもしれない。
☆
日本において、ヴァイオリンを学ぶための門戸は基本ひとつ="クラシック"
でも、出口はというと実に幅広く、("フィドル"という世界も加わって)、
ジャズ、ロック、ポップス、演歌、アイリッシュやカントリー、ハルダンゲル...。
(昨今、門戸の数は増えつつある。ネットの発達で独学も可能になってきた?)
どんなジャンルでも活躍することのできる楽器、ヴァイオリン。
でも、それぞれの世界には、それぞれの世界の、
技術があり、約束事があり、共通用語があり、暗黙の了解がある。
ジャンル越えは、決して簡単ではない。
専門教育を受け、その世界に染まれば染まるほど、
他ジャンルの"常識"を、受け入れ難くなる。
その事情を、一般の人が知ることはない。
「それはできません」と口にすると、
「え? そうなの?」と、ひどく驚かれることがある。
仕方がないこととはいえ、そういうときは、何だか悲しい。
同じクラシック奏者でも、
ヴァイオリン弾き個々が、手中に収める能力は、
受けた教育や育った環境によって、それぞれ違う。
同じ曲を、同じように弾けるからといって、
「能力が同じ」という訳ではない。
まったく同じシステムの早期教育を受けていても、
手にしたものが違う場合が多々あるのだから、面白い。
そう、できないはずのことを、できる人もいるから、
ちょっと困ったり、ちょっと悔しかったりもする。
「え? いつ、そんなこと教わったの?」
「そんなの、聞いてない...」「知らない」「やってない」
思わず、愚痴ってみたりして。
でも、できないものはできない。
だから、正直に言う。―「ごめんなさい...それはできません」
悔しさと、悲しさと、切なさと。
☆
これまでで最大のピンチは...ある結婚式の披露宴だった。
「弦楽四重奏」で呼ばれ、いつものメンバーで出向いた。
当日30分ほどのリハーサルと、わずかな休憩時間の後の本番。
そういうシーンで呼ばれ演奏する曲は、大体決まっていて、
新郎新婦入場・退場、ケーキ入刀、歓談時のBGM...、
《結婚行進曲》や《愛の喜び》《愛の挨拶》《主よ人の望みよ喜びよ》...。
その手の仕事には慣れたメンバーだったから、何の不安もなかった。
ところが、現場に着くと、いつもと様子が違う。
バンドが練習をしていて、その後ろに椅子と譜面台がセットしてある。
「あ、どうも、よろしく。これ、楽譜です」
そう渡されたのは、音符一つないコードだけが書かれた楽譜数枚。
C とか、Bmとか、E♭m7とか、D♯7 -5/Gとか。
「...」「...」「...」「...」、全員で青くなる。
「適当に"駆け上がり"とか入れてもらっても全然いいっす」
いや、そういう問題じゃなくて。
"コード"は"和音"、それはもちろん、クラシックでも重要ファクターだ。
しかし、「英語読みのコードネーム」はクラシック業界では、まず使わない。
和音進行の勉強などで用いる"和音記号"はローマ数字。
英語音名は分かるが、日頃ドイツ音名で生活しているから、厳しい。
我々の「エー」は、「E」であって「A」ではない。
― コード(譜)は読めない。
「"駆け上がり"って何ですか?」...クラシック用語ではない。
「え? "駆け上がり"知らないの?」...多分、ポピュラー系の用語だ。
"駆け上がり"...楽曲を盛り上げるとき弾く、速い連符での上行スケール、
こんな感じの説明であっているだろうか?
気付く。 彼らが発注したのは『ストリングス』
(=よくテレビの歌番組などで、歌手の後ろにいる...)で、
『弦楽四重奏』ではなかったんだ、と。
☆
コード譜が読めないというだけではない。
― 即興はできない。
バロック音楽においては、鍵盤楽器やリュートの奏者らが、
数字付き低音を見て、即興で和音を補いながら、
伴奏声部を完成させていた。(="通奏低音")
"即興"というほどではなかったかもしれないが、
楽曲演奏中に、自由気儘に装飾を施す奏者も多く、
「曲を損なう即興は止めよう」という声があったことも記録に残っている。
加えて、18世紀頃までの"作品"は、
リアルタイムの需要を満たすためのもので、「残す」ものではなかった。
評判が良ければ、同時代に何度か演奏されることもあったが、
過去に作曲された作品を"再演"するというのは、珍しいことだった。
時代は変わる。
エンターテインメント性の強い"消耗品"から、芸術的"永続的作品"へ。
そうして、今のクラシック奏者の多くが、その教育課程で学ぶのは、
「過去の楽曲を再演する」ための、あれこれ。
そこに『即興技術』は、あまり必要とされていない。
"即興""アドリブ(ad lib)""インプロヴィゼーション(improvisation)"
現在、これらは、別のジャンルのものだと考えられている。
(もちろん、クラシック畑でもできる人もいるので誤解なきよう)
そういえば、クラシックに疎い若い友人が、我々の仕事について、
「じゃあ、『カバー』が仕事なの? 徳永英明みたいな感じ?」
と、聞いてきた。う~ん。
「不思議な世界だねぇ」、そう言われたこともある。
確かに、そう言われれば、そうかもしれない。
☆
演奏を頼まれ、確認する。
「(会場に)ピアノありますか?」
「え? ありません。ピアノがないとできませんか?」
― ピアノがないからといって、演奏できない訳ではない。
でも、ピアノがないと形になりにくいというのが、正直なところ。
ヴァイオリン一本でなんとかなるシーンなら構わない。
だが、よく聞くと、相手のイメージはそうではなかったりする。
いつだかの希望曲は、ベートーヴェンの"スプリング・ソナタ"だった。
いや、それは、さすがに、ヴァイオリン一本ではどうにもならない。
「そうですかぁ。ピアノないとダメですかぁ」「...」
「あ、電子ピアノではダメですか?」「...」
― 電子ピアノでダメな訳ではない。
「音響機器はありますけど、伴奏の音源とかありませんか?」
― 伴奏音源がない訳ではない。それで演奏できない訳ではない。
でも。でも。でも。
大抵の場合は、どんな条件でも、何とかして引き受ける。
それが仕事だし、喜んでもらえれば嬉しい。
でも、なんとなく釈然としない思いが残る。
巷で演奏される『ヴァイオリン&ピアノ編成』の楽曲は、
本来はオーケストラ伴奏の曲であったり、他の楽器の曲であったりと、
すでに、その時点で、「アレンジされたもの」であることも少なくない。
...でも。
自分を何から解き放てば、このモヤモヤがなくなるのだろう...。
☆
― 即興できない。
― アレンジできない。
こんな「できない」もある。
― 楽器の調整ができない。修理もできない。
分業、進み過ぎだよなぁ。
「できないこと」は、まだまだある。
― すぐに移調できない。
― 他の楽器の楽譜(特に移調譜)は読めない。
多分、まだある。まだまだある。
どれか一つでもできれば、それは武器になる。
それを活かして、活動している人たちもいるし、
それを手に入れようと、真剣に勉強している人もいる。
今日も、ちっちゃなお弟子さんが、「できない」と言って涙を浮かべる。
『大丈夫 できないことを できるようにするために キミはここにいるんだよ』
「どうして、できないの!」と怒られることの理不尽さを知っている。
明日また、それに似た言葉を聞くかもしれない。
穏やかな日差しを浴びて、
ふと伝えてみたくなった、大人の傷心。