アウアー、ブッシュ、ブゾーニ、フレッシュ、フバイ、
ヨアヒム、クライスラー、サン=サーンス、シュナイダーハン、
シュニトケ、ハイフェッツ、ヴュータン、イザイ...。
手元にある資料リストには、上記の作曲家・演奏家含めて、
ざっと60を超える名前がある。
ここにある名前だけ見ても、錚々たるメンバーだが、
何のリストかと聞かれると、悩む人も多いかもしれない。
実はこれ、《ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲》、
その〈カデンツァ〉を書いた音楽家のリストである。
―カデンツァ (伊 cadenza 独 Kadenz)
「独奏協奏曲において独奏楽器がオーケストラの伴奏を伴わず
自由に即興的な演奏をする部分」
協奏曲の演奏を聞いていると、例えば、第一楽章の終わり辺りで、
楽曲が徐々に盛り上がり、終わるのかと思えばそうではなく、
聞きようによっては、少し中途半端な感じで、一旦曲が締め括られ、
どうだと言わんばかりに、ソリストが一人でカッコよくソロを弾き始める、
その部分 ― これが〈カデンツァ〉だ。
「〈カデンツァ〉は楽曲の一部?」―Yes.
「それが何十種類もあるの?」―Yes.
「『楽譜の種類が多い』というのとは別な話?」―Yes.
「いろいろな人が書いているの?」―Yes.
「っていうか、即興なのに楽譜があるの?」...Yes.
「???」「...」
こうして、『カデンツァのなぜ』が始まる。
その昔、"cadenza"に胸いっぱいの「なぜ」を抱えていた。
今でも、"cadenza"と聞くと、頭にモヤモヤが立ち込める。
☆
― カデンツァ cadenza(伊) Kadenz(独)
(1)元来は〈カデンツァ・ディ・ブラヴーラcadenza di bravura〉〈カデンツァ・フィオリトゥーラcadenza fioritura〉の略。終止(形)の前に挿入される技巧的で自由な無伴奏の部分。
(2)〈終止(形)〉のこと。楽曲・楽句などの終止や段落に際して、句読点の役割を果たすところの旋律または和声の定型をさす。なお、機能和声理論においては、各機能にもとづく和音連結の一定の型も終止と関わりなく〈カデンツ〉と呼ぶ。
現在においては、二つの意味を持つ音楽用語ということになるが、
日本では、混乱を避ける明確な意図があってか、単なる習慣なのか、
前者を「カデンツァ」、後者を「カデンツ」と呼び分ける傾向がある。
時代的には、「カデンツァ」の方が新しい語彙である。
cadenza(伊)
1.(音、歌などの休止の前の)抑揚,(詩節、語句の)リズミックな流れ;(話しぶりの)調子,抑揚.
2.調子,拍子;歩調.
3.《音》カデンツァ(楽曲の装飾的,技巧的な箇所);終止和音進行,カデンス.
*仏語のcadenceを経て14世紀後期に英語のcadence「拍子」「抑揚」「終止」となった.
*19世紀に音楽用語の「カデンツァ」が直接英語に借用され,二重語となる.
*仏語はcadenza,独語はKadenzとして借用.
cadence(仏)
1.(a)韻律;調子,リズム (b)(仕事・生産の)リズム (c)(銃などの一分間に撃てる)発射速度
2.《音楽》終止;(コンチェルトの)カデンツァKadenz (独) カデンツ, カデンツァ. 《言語》(文末の)声の下げ;《文》(詩の)行末構造.
cadence(英)(詩などの)韻律(rhythm);抑揚 《楽》(楽章・楽曲の)終止(法).
cadenza(英)《楽》カデンツァ,飾奏(部).
基本的な語意に、「抑揚」や「調子」「リズム」が含まれることに、
多大な興味と、なんとも言えぬ奥深さを感じてしまう...。
ちなみに、〈cadenza di bravura〉〈cadenza fioritura〉の、
"bravura(伊)"は「うまさ」「器用」「熟達」《音》「巧妙に熟練させて素早く」
"fioritura(伊)"は、「開花」「盛り」「繁栄」《音》「旋律に装飾を施すこと」
「テクニカルなカデンツ」「装飾を施したカデンツ」...なるほど。
あれこれ想像していたら、少し"cadenza"に親近感が湧いてきた。
☆
― 独奏協奏曲(ソロ・コンチェルトsolo concerto)
「テクニックの発達が名人芸を豊かなものとさせるにつれ、 ソリストの個人的価値が、演奏家集団の中に埋没してしまわないような 新形式を採用することが作曲家の仕事となった」(フェルショー)
18世紀における協奏曲は、ある種のエンターテインメント性をもっていた。
ソリストの即興による〈カデンツァ〉を聞くこともまた、
聴衆の大きな楽しみのひとつだったことは、間違いないだろう。
作曲者=演奏者であれば、そのワクワク度は更に高かったはずだ。
演奏者の側に立てば(それが作曲者本人であろうと第三者であろうと)、
演奏家としての独自性を打ち出し、人々に認められるための、
超絶技巧やショー的妙技を披露する場として、
協奏曲の〈カデンツァ〉はうってつけだったに違いない。
作曲家≠演奏家の時代に至っては、例えば、
想定するソリストが友人であれば、そこには信頼と期待があるだろうし、
イベント的要素の必要性も、作曲者は理解して書いたはずだ。
なにしろ、聴衆が満足しなければ、次はないに等しい。
しかし、奏者が技巧を凝らし過ぎて、楽曲の音楽的「枠」を越えれば、
協奏曲の、楽曲としての均衡を崩すことにもなりかねないし、
かといって、あまりに簡素だと、芸術的価値なしと評され、
それもまた、楽曲へ悪い影響を及ぼしてしまう。
「こんなはずじゃなかった」と、
そう、作曲家が思えば、カデンツァ自体が葬られることになり、
「こんなはずじゃなかった」と、
そう、演奏家が思えば、新たなカデンツァは作られなくなる。
楽曲の生命を脅かす危険のある〈カデンツァ〉、
その捉え方・在り方は、常に試行錯誤の直中にあり、
結果、時代や作曲家によって、かなり大きな差異がある。
これが多分、「カデンツァ」という語彙にある種の脆弱さをもたらした原因だろう。
☆
「自分の曲には、誰にも手を出させないぞ!」
自分で、〈カデンツァ〉を書いてしまう、
あるいは、〈カデンツァ〉そのものを排除する。
演奏者の独断は許さないという、強い意志を見せる作曲家。
「え? そこは好きに弾いていいよ」
それ込みで書いた楽曲なのだから、作曲者の世界観に囚われず、
"今"という時間を、目の前にいる"奏者"を楽しめばいい。
そういう発想で、楽曲の一部を「丸投げ」してくれる作曲家。
別な視点から考えれば、
誰もが認めるカデンツァを作り、演奏すること、
それは、演奏家(作曲家)冥利に尽きることでもある。
そうして、一つの協奏曲に複数の作曲家がカデンツァを書くようになり、
演奏家は、その中から自分に合うものを選んで演奏するようになる。
「これ」というものは、記録せずにはいられない。
「これ」というものは、再現せずにはいられない、
まったく、音楽家って...。
それにしても、いくら「即興可」とはいえ、
「出回るカデンツァ60種類超え」というのは異常である。
実際、これほど〈カデンツァ〉に数があり、注目されるのは、
多分、ベートーヴェンだけだろう。
ベートーヴェンも、まさかこれほど、
自分の曲が、好き勝手にされているとは思っていまい。
☆
ベートーヴェン(1770-1827)の《ヴァイオリン協奏曲(1806)》は、
ロマン・ロランが"傑作の森"と呼んだ時代(中期)に作曲され、
メンデルスゾーンの作品64、ブラームスの作品77の作品と共に、
『三大ヴァイオリン協奏曲』と称されている作品。
1806年は、ベートーヴェンが多忙を極めていた年、
ピアノ協奏曲第4番、《レオノーレ》改訂、《ラズモフスキー》弦楽四重奏曲、交響曲第4番...。
その年に完成させた作品、関わっていた作品を見ると、思わず唸ってしまう。
そんな中、12月23日に開催の友人クレメントのチャリティコンサートのためにと、
11月下旬に、急に依頼されたのが、この《ヴァイオリン協奏曲》。
その間、約1ヶ月。...あの50分にも及ぶ大曲を1ヶ月で?
チェルニーが伝える「クレメントはほぼ初見で演奏した」
という話も、あながち嘘とも思えない。
クレメント(Franz Joseph Clement 1780-1842)は、
ウィーン生まれの天才ヴァイオリニストとして、人気を博していた。
実際、この12月23日のコンサートも、
ベートーヴェンの作品より、彼の作品と妙技が評価されたようだ。
技巧的でない理由(超絶技巧ではないという意味だ)や、
ヨアヒムが採り上げるまで、あまり演奏されなかった理由など、
話題には事欠かない《ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲》だが、
作曲過程や期間、依頼主や演奏者との関連に想いを巡らせるのは楽しい。
自筆スコアには、"Concerto par Clemenza pour Clement"
(「お情けによりクレメントのために」)と、
駄洒落のような献辞が、書かれていたという。
そう、クレメントのために書いたのだ。
書かれていない〈カデンツァ〉も。
まさに、そこが、"楽章の頂点"。
これでもかというほど、音楽は盛り上がっている。
それに応えるためには、華麗で、鮮烈で、
難易度の高いカデンツァを弾かざるを得ない。
お膳立ては整っている。
クレメントも燃えたに違いない。
ここまで隠しておいた技巧の数々を…。
だからこそ、今日においての「60種類」なのだろう。
作曲家魂、ヴァイオリニスト魂に火を付ける曲なのだ。
現在よく演奏されるのは、
ヨアヒム、アウアー、クライスラーらが創作したものだろうか。
ベートーヴェン自身が編曲した《ピアノ協奏曲編曲版》のカデンツァ
(ベートーヴェン自身が書いたもの)に基づいて作られたものや、
いろいろな意味で異色の「シュニトケ版」などというものがある。
(ブラームスなど他の作曲家のヴァイオリン協奏曲の主要動機がちりばめられている!)
やはり、何かが特別なのだ。
☆
先日、父が亡くなった。
何度も余命を宣告されての長患いだったから、覚悟もできていて、
いつもと変わらぬ寝顔で静かに眠る父に、
穏やかな気持ちで「ただいま」を言うことができた。
その父の希望で執り行なった、身内だけの家族葬、
式次第の中に"献奏"というものが含まれていた。
事前の打ち合わせで、《G線上のアリア》をお願いしていたのだが、
ヴァイオリンとフルート、クラリネットの生演奏、
心温まる時間、それまで堪えていた涙が滂沱として禁ぜず…。
わずか数分の間に、父との思い出が、本当に走馬灯のように浮かんでは消える。
「いつも耳にする曲が、聞き様でこんなに違って聞こえるのね」
ハンカチを目に当てた母が、そう、ポツッと呟く。
父との思い出の曲は、といえば、
ブラームスだったり、ベートーヴェンだったりするのだが、
これからは《G線上のアリア》が、父との特別な曲になるのだろう。
小さくなった母の姿に、後ろ髪を引かれながら帰京してみれば、
50㎝以上の積雪に、何日も潰されていた庭の草花が、
周りの雪を溶かし、顔を出している。
蕾を立て、花をつけ始めていたクリスマスローズも無事。
窓を開ければ、吹き込む風に、少しばかりの春を感じる。
こういうときは、同じベートーヴェンでも、
やはり、"スプリング・ソナタ"だろうか。
Beethoven Violin Concerto - Schnittke Cadenza Mov 1 - Kremer
https://www.youtube.com/watch?v=yGRKUl4TrJU
ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第50回 カデンツァの真実
Wolfgang Schneiderhan Beethoven Violin Concerto the Cadenzas
Ludwig van Beethoven: Violin Concerto Op.61a in D major (Piano Version)