今週の青木節、またちょっとご無沙汰してしまった。
アッコルドの仕事は多岐に亘るので、自分のコラムを書いている暇がなかった。
少数精鋭と言えば聞こえがいいが、マンパワー不足は否めない。
いや、反省を込めて言えば、ひねり出せば時間はあるはずだ。
このような葛藤を重ねて何十年。我ながら成長がみられない。
しかし、まだ諦めてはいない。しつこさは残っているようだ。
昔、書いた原稿を、リメイクしようと思ったのだが、なかなか使えそうなものが見つからない。
やはり、リメイクなどとせこいことをしてはいけないと神様が言っているのか。
ただ、古今東西の大作曲家の作品を見ると、リメイクとは言わないまでも、何度か同じ材料が出てきて、そして、どんどん高めて行くような行為を行なっている。
例えば、ベートーヴェンの第九の中には、過去のシンフォニーで使われた素材が、姿を変えて出てきている。しかも、より高みに至っている。
いわば、螺旋階段のようなものだ。螺旋階段は、上空から見ると、同じところをぐるぐる廻っているようにしか見えない。
しかし、横方向から見ると、明らかに上に登っている。
これだ。作曲家は、多かれ少なかれ、ライフワークとして、一つのテーマを高めようとしているのだろう。
例えば、玉木宏樹先生は、一生をかけて純正律をはじめとした音律の世界を究められた。
彼のその思いは、幼少の頃から始まっていた。そして、亡くなる直前まで、その世界を追求されていた。
さて、第九でひととおり達成した感があったのか、その後、ベートーヴェンは、弦楽四重奏の後期の世界で、新たなモダンな世界を追求しようとしていたように思えてならない。
私は、ベートーヴェンの弦楽四重奏の後期の世界が難解でならない、とよくことあるごとに言ったことがある。
解散する前のフェルメール・カルテットの皆さんにも、そう言ったことがある。
そしたら、彼らも、難解だ、と言ったのには驚いた。
今思えば、彼らは勉強不足の私に話を合わせただけなのかもしれない。
ただ、ベートーヴェンの後期の世界はバルトークやショスタコーヴィチの世界に繋がり、前期の世界は、メンデルスゾーンやブラームス……につながる、と言われたのは、彼らの真意であると思う。
最近、歳をとったのか、ベートーヴェンの後期の世界が好きになるつつある。というか、素直に受け止めようと思う。
実は、この世界にはまるとなんとなくヤバいという気がしていた。であるから、そんなにたくさん何度も聴こうとはしていなかったのである。だが今は素直に聴こうと思う。螺旋階段を私も登りたいと思う。
堀江貴文氏の新著「ゼロ」を読んだ。あっという間に読んだ。
堀江さんのことは、世間の評判以上のことはなにも知らなかった。
しかし、この著作で、彼の本当の姿というものを垣間見たような思いだ。
彼は、幼少の頃からのことを赤裸々に書いている。その体験が仕事のひとつひとつに繋がっていくことがよく理解できた。
彼は再出発するにあたって、自身を理解してもらうために言葉を尽くして語っていこうと決心している。彼に対する誤解というのは多々あったのだのだろう。
でも、彼は決して屈せず、またあれだけの成功と挫折を体験してなお、彼は仕事に燃えている。仕事、である。
小さな成功体験の積み重ね。
この言葉は重い。
彼も古今東西の大実業家のような、大作曲家のような螺旋階段で高みにいくような方だと、私は思った。
ともすると、遙か彼方を思い描き、途方に暮れる私に勇気を与えてくれた。
第16回 螺旋階段