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恐妻家で知られる私の、今回は命がけの青木節であります。

 

「半沢直樹」は、久しぶりに見応えのあるドラマだった。その前というと……

「白い巨塔」かな。その前は……………「101回目のプロポーズ」。このドラマを見たのは、ちょうど、かみさんとの出会いの頃だった。

 

「半沢直樹」は、原作、脚本から始まって、キャスティングをしていくという、かつて主流だった順番方法で制作されたらしい。

 

結局、このやり方こそが、脚本も役者も最大限に実力を発揮できる方法なのではないか、と私は想像する。

 

本来あるべき方法、オーソドックスというものが、未来永劫いいものをつくるための最高の方法なのではないか。

 

驚異的な視聴率は、いいものはいい、と思う人々の正直な気持ちをそのまま表わしているのではないだろうか。

 

半沢直樹を演じた堺雅人さんの演技には心が震えた。

私は好きな音楽を、というかフレーズを何度も聴く癖がある。例えば、最近で言うと、メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第2番第1楽章の冒頭をiPhoneで移動中に何度も聴いたりしているのだが、半沢直樹の最終回のクライマックスである「地べたを舐めるようにしてあなたに縋り、貶され、蔑まれ、……」で始まる境雅人さんの演技を、そこの部分だけ実は何度も繰り返し見ては感動の涙を流した。

 

いったい、あのような演技をする俳優というのは、どういう人間なのだろうかと思った。

 

そこで家内に、意見を求めた。

 

以下は、あくまでも家内の趣味であり、好みであることをあらかじめお断わりしておく。

 

 

「俳優、役者というのは、普通の生活を送っているように見える人じゃなくて、ストイックな生活を送っているように見える人。」

 

──じゃあ、ふだんから何か、訳ありのような過去を背負っているような人?

 

「それは関係ない。普通に結婚して、普通に家族がいて、素晴らしい演技をして、しかも私生活をまったく感じさせない人っていっぱいいるでしょう。そこには因果関係はない。」

 

──じゃあ、ストイックというのは、どこから来るの?

 

「その人の事を想像させる何ものかだと思う。」

 

──何を想像しているの?

 

「というよりなんかよく分からなくて想像させるところがいいわけ。

本人の素顔ががよく分からないって感じ。

そういう感じが魅力的であるし、ストイックな部分を感じさせるのだと思う。

 

まず、役者はストイックであるべきで、私生活が見えてはいけない。

なぜなら一般的な普通に存在している人間から離れた、一般的にはいそうもない人間を演じるのが役者であるから。

普通に演じてもつまらないでしょう?

 

役者は日常を超えたある意味、狂気の世界にいるような人。

どこかに毒をもっているようなところが本領の役者さんもいる。

普通の人を演じたとしても、その普通の中にわずかな毒をもっているように見える人もいる。

であるから、ある意味自分の格好良さを捨てないといけない。

 

ある程度歳をとってくると、女は男に、ほんものの格好良さを求めるものなんですよ。

 

だから役者としての格好良さというのは、

ブロマイド的な、顔かたちの格好良さではなくて、

しぐさの格好良さじゃなくて、

みっともない中での格好良さってあるでしょう?

 

そういう本質的な格好良さというのは、見た目が格好良いとか悪いとかじゃなくて、現にあるでしょう。

アラフォーくらいになってくると、だんだん、そういう方が格好良いということになるわけ。

 

そうなると、ただ見た目の綺麗さ、格好良いだけでは物足りなくなるわけ。

 

見た目の格好良さを一旦取らないと、たぶん次のステップには上がれない。」

 

──それは僕にも言えるな。

 

「あなたに見た目の格好良さがあった時代なんてあったの?!」

 

──それはともかく、そういう意味じゃ演奏家もそういうところあるかもね。

 

「そうね、普通の演奏なんか聴きたくないものね。」

 

──僕は、せめて普通の演奏ができるようになりたい、と思ってきたけど。

 

「わざわざお金払って普通の演奏聴きたくないじゃない。」

 

──じゃあ、どういう演奏が普通じゃないの?

 

「分からない。どういう演奏が普通じゃないか、それは分からないけれど……

 

それこそ、その演奏に、ときめくかときめかないか、じゃないかな。

物を片付けるときに、ときめくものは残す、ときめかないものは捨てる、という方法を唱えている人がいるけれど、それに近い。」

 

──なるほど。でも、どうすれば、ときめくものを作ることができるの?

 

「だから、それは、具体的には分からない。

こうだったら、ときめく、こうだったらときめかない、といった、そういう定義はない。

 

ただその時聴いて、ときめくかときめかないかだけ。

上手いからときめくとも限らない。

上手くないからときめかないとも限らない。

それは、聴いてみなければまったく分からないわけ。」

 

──それは、あらゆる価値判断の目安になるかもね。食べ物に関してもそうかもしれない。

 

「だから、ときめきは本当に重要なの。非常に重要なわけ。」

 

──男女関係でも?

 

「そう、ときめきがないのはだめなの。」

 

──ときめきに遭遇するためにはどうしたらいいの?

 

「ときめきには、いつ出会うかは分からない。

別にそれを探し求めてなくても、あるとき本当に、胸がキュンとなることってあるでしょ。

 

本当にこれは分からない。別にそんなつもりでなくて見に行ったのに、急にいいと思うことがあるでしょう。

自分の感受性次第ということもあるし。

だからこればっかりは分からない。

何にときめくかも分からないし。」

 

 

結局、役者も演奏家も、ときめきという、本当につかみ所の無い、不安定な要素が大事だ、ということが我が家での結論となった。

そのときめきをもたらすものはストイックさである、と私は結論づけた。私から最も遠い部分である。

 

ところで、家内は私と出会ったとき、ときめきを感じたのかどうか、聞くのを忘れた。

第15回 ときめき、ということに関して 徒然なるままに

 

今週の青木節 アッコルド編集長 青木 日出男

© 2014 by アッコルド出版

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