Hommage à Etienne Vatelot
エティエンヌ・ヴァトロ氏へのオマージュ(2)
「音楽家と楽器、そしてフランスの伝統芸術のために」フランス弦楽器界の重鎮
インタヴュアー:船越清佳(ふなこし さやか・ピアニスト)
インタヴュー
船越清佳 Sayaka Funakoshi,Pf
岡山市に生まれる。京都市立堀川高校音楽科(現・京都堀川音楽高校)卒業後渡仏。リヨン国立高等音楽院卒。
在学中より演奏活動を始め、ヨーロッパ、日本を中心としたソロ、室内楽、器楽声楽伴奏、CD録音、楽譜改訂において幅広い活動を行なう。
またフランスではパリ地方の市立音楽院にて後進の指導にも力を注いでおり、多くのコンクール受賞者を出している。
日本ではヴァイオリンのヴァディム・チジクとのCDがオクタヴィアレコード(エクストン)より3枚発売されている。
フランスと日本、それぞれの長所を融合する指導法を紹介した著書「ピアノ嫌いにさせないレッスン」(ヤマハミュージックメディア)も好評発売中。
見習いから
船越「ヴァトロさんはなぜ弦楽器製作者の道を選ばれたのでしょうか? 勿論お父様マルセル・ヴァトロの影響があったと思いますが。」
エティエンヌ・ヴァトロ(以下E・V)「私は勉強があまりできなくて……少し怠けものだったのです(笑)。
高校生のころ、父から『こんなことではお前はバカロレア(大学入学資格試験)に合格できないぞ! 自分が将来何をしたいのかよく考えろ!』と言われ、そこで演劇学校(Conservatoire d'Art Dramatique)に行こうと思いました。しかしこれには母が『役者なんてやめて!』と大反対したのであきらめました(笑)。その頃の私は、一体自分が何をしたいのかわかっていなかったのです。
このような状態でしばらく経った頃、父が『夏のヴァカンス中、一度工房を見に来ないか? どのようにヴァイオリンを作るのか、どのように木を切るのか、いろいろ見られるよ』と言うので、このアトリエに来てみたのですね。
どうしてか自分でもよくわからないのですが、興味をかきたてられました。自分自身でも驚きでした。勿論、木やヴァイオリンの形、職人仕事が好きではありましたが……。
ある日、父がたいして期待する様子もなく『この仕事、どう思う?』と訊いた時、私は彼を見て『ここに居残るよ、お父さん』と答えたのです。
父は『本当にこの仕事に就く覚悟があるのか?』とも訊きましたが、結局『まずここで見習いとして働いて、その後ミルクールのアメデ・デュードネのところへ行きなさい。彼は厳しいが、師匠としては一番だ』と言い、このようにして私の弦楽器製作業者としての人生が始まったのです。」
弦楽器の街のミルクール
船越「フランス弦楽器製作業発祥の地、ミルクールとはどんなところなのでしょう? またヴァトロさんが弟子入りした名工、アメデ・デュードネ(Amédée Dieudonné 1890-1956)のアトリエでの修行はどんなものでしたか?」
E・V「音楽愛好家であったロレーヌ公によって、弦楽器の産地として発展したミルクールは、イタリアのクレモナのように弦楽器製作業と切り離せない存在です。ご存知の通りヴィヨームや、リュポーの祖先の出身地でもあります。
この人口数千人の小さな街全体が、弦楽器製作業によって成り立っていた時期もあるほどです。一時は、何百人もの職人が、工場の流れ作業による安価なヴァイオリン製作に従事しており、また勿論全てを手工業で行なう工房もありました。
父マルセルもパリに来る前にはミルクールで修行しましたし、ヴァトロ・ランパル工房のアシスタントたちも、まずミルクールで勉強してから、パリで研鑚を積んでいます。
ミルクールの最上の職人の腕の正確さ、作業の速さといったら、本当に素晴らしいものでした。デュードネの工房の職人たちも、完全な手作業で一週間にひとつふたつとヴァイオリンの胴体を仕上げてしまい、とても人間技とは思えませんでした。いつも同じモデルでしたが、手など見る必要もなく、ひとりでに動いているといった感じで……信じられなかったですね。
私は1942年から父のもとで見習いとして働き、そしてミルクールのデュードネのもとへ弟子入りしました。彼はその時『私が許可を出すまで、エティエンヌはあなたの工房に帰れません』と父へ言い渡しました。私は今でも、デュードネが父に宛てた手紙――私がパリの父のもとで働くことを許可するというもの――を大切に保存しています。
デュードネの工房には一年間いました。一旦父のアトリエに戻った後、少しアメリカのサッコーニ(Sacconi)のところにいたこともあります……ジネット・ヌヴーの事故の頃ですね。
その後、ヴァトロ工房に戻ってからはここを離れることなく、父とは28年間共に働きました。」
教育相とかけ合う
船越「ヴァトロさんはミルクールに弦楽器製作学校を創立(1970年)するためにご尽力なさいました。そのいきさつをお話しいただきたいのですが?」
E・V「1960年代、ミルクールは大変な没落の道をたどっていました。当時、ミルクールの弦楽器製作者は一握りに過ぎなかったのです。またミルクールだけでなく、フランス全体でも、この職業を目指す若い人たちがいないことが問題でした。
父と『若い人に技術を伝えるためにも、弦楽器製作学校を作らなければ……』と話し合うこともしばしばありました。
その頃、クロード・サンテリ(Claude Santelli 1923-2001)という素晴らしい映画監督が、ミルクールの絶望的な廃れようを嘆き、この滅びつつある職業のために何も行動を起こさないのは論外であると、ミルクールの弦楽器製作業衰退を扱った、感動的なテレビ映画『Le luthier(筆者註 ヴァトロ氏を主人公としたドキュメンタリー映画)』を撮影したのです。
ミルクールの古い工房が撮影され、またオイストラフ、メニューイン、ジャンドロンといった演奏家が『フランスの弦楽器製作業が滅びてしまったら……』というインタヴューに協力しました。
この質問に、スターンが訛りのあるフランス語で『Catastrophe(カタストロフ)!!』と答える場面もあり、また私も『この職業を守っていかなければ』と懸命に訴えたのです。
この映画はある日曜日の夜に放映されました。当時はテレビチャンネルも2つしかありませんでしたから、この映画は高い視聴率を得たのです。
放映の翌日、当時の国民教育相、オリヴィエ・ギシャールの秘書から、『教育相があなたにお話があります』と、電話がかかってきました。電話をかわったギシャール氏は『昨日の映画でのあなたの発言は一体どういうことですか? 明日国民教育省まで説明に来ていただきたい』と大層不機嫌な様子でした。私は呼び出しを食らってしまったのです。
ギシャール氏の部屋で、『あなたは政府を批判しているようですが、あなたの要求は一体何なのです?』と訊かれました。
『弦楽器製作者を育てるために、学校が必要です』『弦楽器製作学校? どこへ?』『ミルクールです』『どうしてミルクールなのですか?』『ここは何世紀も前から弦楽器の街です。フランス弦楽器製作発祥の地ですよ!』『生徒は何人くらい?』『……最初は5、6人……』『先生は?』『1人……』『たったこれだけのために、あなたは学校を作れというのですか!?』『ともかく、始めないことには、どうしようもないではありませんか!』と、このようなやり取りがあり、私も必死で食い下がりました。
話し合いの末(それは4月のことだったのですが)、『これだけ予算をあげますから(大した額ではありませんでした)、9月開校のためにあなたが何とかしなさい』ということになったのです。開校まで数ヶ月しかありません。
ミルクール在住の製作者、ルネ・モリゾ(René Morizot 1917-2001)が先生のポストを引き受けてくれました。またミルクールの市長は、仮設の校舎を貸してくれることになりました。作業台なども、新しいものを買うお金がないので、古いもののニスの汚れを削り取ってきれいにし、使える状態にしたのです。
9月の開校式には、鉢植えの花を飾り、ミルクールの副県庁知事も参列しました。ミルクール弦楽器製作学校は、こうして先生1人に生徒5、6人(その中には将来弦楽器製作者になるかどうかわからない者もいました)から始まったのです。
以来、ご存じのように少しずつ学校は発展していきました。ここで3年間の養成期間を経て、その後はそれぞれが、パリや地方の工房で研鑚を重ねていきます。製作者になるためには7年から8年の年月を必要としますから。
またその頃、文化省の音楽部局のトップであった作曲家、マルセル・ランドウスキの音楽教育改革(筆者註・70年代、地方の文化面の活性化を図るため、地方音楽院、地方を拠点とするオーケストラの設置が促進された。通常『プラン・ランドウスキ』と呼ばれる)のお陰で、地方にもコンセルヴァトワールができました。従ってリヨン、ボルドー、トゥールーズといった地方都市にも弦楽器工房が少しずつ増え、製作者の仕事の発展につながっていったのです。ランドウスキは、ミルクールの学校創立のプロジェクトをサポートした人のひとりでもあります。」
自己表現の多面性
船越「弦楽器製作者のお仕事はとても多面性のあるものと思いますが、ヴァトロさんのこのお仕事に対するヴィジョンとはどのようなものでしょうか?」
E・V「ひとことで弦楽器製作業といっても、そのキャリアの展開は多岐にわたっています。ひとつの工房の中でも、それぞれの個性、それぞれの弦楽器業に対する観点や好みにより、自由な自己表現の可能性があるのです。
彼らは養成期間において、大方が最初想像もしていなかったことに直面していくことになります。
この職業は、卓越した技術を持つ製作者を目指すことだけではありません。楽器の製作自体は、まず技術的な器用さ、良い趣味といった問題ですが、これは美術品の創造でなければならず、しかも美しい音を奏でる美術品でなくてはならないのです。また近年のモダン楽器分野の発展により、彼ら独自のモデルを追及する作家もいます。
また鑑定の分野でオールド楽器に対する知識に精通すること、楽器の調整、また修復分野での特殊技術を極めるといったこともあります。それぞれの得意な道を専門として追及していくことも可能なのです。
そしてこれら全てに共通する何よりも大切なことは、聴く耳を研ぎ澄ますことです。音色に関する勉強です。数々の演奏家を聴き、たくさんコンサートに行って、演奏家へ楽器の選択のアドヴァイスをし、演奏家と共に音色の探求をすることです。」
手工業の継承を
船越「ヴァトロさんは、伝統の継承、また職業を教えるということをどのように定義なさいますか?」
E・V「芸術関係の職業に携わる者にとっての最大の喜びは、自分ができること、自分の愛するものを後進へ伝えていくことだと思います。
フランスには200以上の美術工芸職が存在します。これらの素晴らしい職業は、大変困難で複雑な技術を必要とします。特殊で稀少な職業が滅びないように、私たちが守っていかなければなりません。
そのためには、『手腕の継承』が必要です。伝統を守り、この職業を愛する今後の若い方々のために発展させていかなければ……。
15年前ならともかく、私はもう今の自分の手では以前のような作業ができません。これからは若い人の器用な手が必要なのです。
手工業は手しか使わないから、いわゆる知的、科学的職業より劣るように考えられる傾向がありますが、それは大きな間違いです。『知性の手』がなければ、どうして偉大な美術工芸職が存在するでしょうか。」
コンクールと音色の探求
船越「お名前を冠した国際製作コンクール『コンクール・エティエンヌ・ヴァトロ』で、ご自身が趣旨とされていることは何でしょうか?」
E・V「私のようにオールドの楽器を愛するものにとっても、現代の楽器の発達発展は重要なことです。
前回のコンクールでも、多くの国から100人以上の参加者がありました。審査員も公正な審査のため諸外国から招聘しています。
私はこのコンクールでは審査に関わりませんし、審査委員長も務めません。もしもフランス人が受賞することになった場合、またそうでない場合にも、各国からの受験者に対して心苦しく感じるからです。
コンクールは未来のため、若い製作者の自己表現のため、そして特に彼らが音色の問題に重きをおくために大切であると思います。
コンクールには音楽家の審査員もいます。特に耳を磨いていただきたいのです。ただ美しく立派な楽器の製作者であることにとどまらず、それに音色の探求が追随しなければなりません。」
微妙な違いを聴き分けること
船越「日本でこれから弦楽器製作者を目指す若い方々にアドヴァイスを。」
E・V「日本は音楽愛好家の方、そして演奏会も多いことと思います。この恵まれた環境を活かし、たくさん演奏会を聴いて耳を磨き養うこと、繰り返しますが、この点につきると思います。
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが表現する音色、音楽家が演奏する場所、また何の楽器を使っているか、楽器がその人にあっているかどうか、どのような場所で弾く人か、どのようなタイプの演奏をする人か、問題がある場合、原因は楽器にあるのか、あるいは演奏する側にあるのか……このようなことを理解するには、演奏を頻繁に聴くしかありません。
私は現役時代、一週間に3、4回は演奏会に行っていました。そして、同じ会場ではいつも同じ座席で聴きました。これらの要素に対する判断を鈍らせないため、大切な目やすなのです。
そして演奏家が楽器を探している場合、それがモダン、オールド楽器にかかわらず、製作者の耳をもって、楽器の選択に助言をしてあげてください。
私は、楽器がその音楽家の才能にふさわしくないと判断する時、売るのを拒否したこともあります。名器がそれに値しない演奏家に使われること、また逆のケース、両方とも残念なことです。
また、ストラディヴァリウスでさえ、全ての楽器が素晴らしいとは限りません。『ストラディヴァリウス』の名に値しないヴァイオリンもあるのです。その違いを認識する力が必要です。
またこのマリアージュの成功は、音楽家、楽器、そして弓という三つで成り立っています。
ある日、ナタン・ミルシュタインが訪れ、向こうの部屋で試奏をしていたことがありました。私はここのアトリエにいたのですが、あちらから聞こえてくる音色が変化したので様子を見にいったところ、彼が演奏していたのは、いつもの彼のストラディヴァリウスで、変わったのは弓の方だったのです。
微小な違いを聴き分けられるということ、これは別に特別なことでもなんでもありません。弦楽器に携わる者にとって最低限の条件に過ぎないのです。
時代が変わり、今は何でもスピードが速すぎて目まぐるしいですね。自分が今の時代に仕事をしていたら、不幸かもしれません。私は、音の調整ひとつを挙げても、誰のために、どのように工夫をこらし、どのように音楽家を満足させるか、ゆっくりと考え、また悩む時間を愛しているのです。
来月はアンネ=ゾフィー・ムターが楽器のメンテナンスに訪れますが、その時は私も来て、私にできるアドヴァイスがあればします。私は今年で87歳になりますが、今でもこの仕事に夢中で、興味を持ち続けているのです。父マルセルも、いつも『ヴァイオリンに囲まれて召されたい』と言っていました……。」
エティエンヌ・ヴァトロ Etienne Vatelot
(1925~2013)
プロヴァン(Provins)に生まれる。1942年より父マルセル・ヴァトロ(Marcel Vatelot)の工房で弦楽器製作を学ぶ。ミルクールのアメデ・デュードネ(Amédée Dieudonné)、マシー・パレゾーのヴィクトール・クノワル(Victor Quenoil)のもと、製作、修復分野で研鑚を積む。
49年、オランダのデンハーグ弦楽器製作コンクールにて名誉賞受賞。59年より正式に父の工房を引き継ぎ、パリ裁判所付の鑑定人に任命される。66年、フランス弦楽器、弓製作者協会会長に就任。70年、ミルクールに国立弦楽器製作学校を創立。76年、共和国大統領賞受賞。80年から97年まで、工芸職促進会合会長を務める。94年、文化省と産業手工業省より、工芸職議会会長に任命される。
マドリッド王宮のストラディヴァリウス四重奏セットを修復した功績により、イザベル・ラ・カトリック勲章を受勲。フランス政府より、文化芸術勲章コマンドゥール、レジオンドヌール勲章コマンドゥール、国家功労勲章オフィシエ、教育功労章などを授与される。
エティエンヌ・ヴァトロは、世界中より講演会の招聘を受け、自身の工房で多くの後進の育成にも力を注いだ。また若い弦楽器、弓製作者の活動を奨励するために、「マルセル・ヴァトロ財団」を、パリ市の後援を受けて、国際弦楽器、弓製作コンクール「Concours Etienne Vatelot」を設立。2013年7月逝去。