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これから10団体による2次予選が始まる。今日も一昨日、昨日と同じ平土間いちばん後ろの席に陣取って、ステージが始まるのを待ちながらこの文章を記している。

 

まだまだ夏が続くような9月の日曜日の午前中、カトリックの街だけあって、市内のあちこちの教会からはガランガランと鐘の音が鳴り響いている。そんな朝の強烈な光の中、10時半前の音楽院大ホール扉前にはご隠居達が列を成している。なにせこのコンクール、2次予選までは入場無料なのだ。

 

若者達のキャリアを賭けた力演を朝から晩まで聴いても一銭もかからないとなれば(このご隠居たちはこれまでの人生で沢山の税金を連邦政府や州政府に払ってきたのだろうけれど)、ドイツでも際立って生活費が高いというこの街では、こんなに有り難い娯楽もなかろう。それにしても、若い者がいると音楽家か関係者、というのはヨーロッパの常識とはいえ、なんとかならぬものか。

 

2次予選が始まる前に、「ミュンヘン・コンクールのピアノ三重奏部門」というジャンルについての一般論を述べておこう。

 

この大会、進行方法は旧来の伝統的なコンクールそのものだ。1次予選、2次予選、セミファイナルと足切りを続け、最後のファイナルは3団体程度にまで絞るやり方である。

 

ヨーロッパで開催される室内楽コンクールでは、基本的に会場までの渡航費は主催者負担ではない。多少は参加者が増えようが、コンクール側の経済的負担はそう違わないのである(あるラウンド以上に到達した参加者には交通費が補填されるシステムの大会もあるが)。

 

メルボルンや大阪、バンフなど、ヨーロッパ中央から見れば地の果てで開催される室内楽コンクールでは、欧州からの渡航費がチェロ込みで50万円を超えてしまう。主催者が援助しない限りは優勝でもしないと引き合うものではない。そのため、非ヨーロッパ圏での室内楽コンクールは参加団体は10程度に絞り、参加者の交通費はコンクール主催者が負担するのが常識だ。メルボルンや北京のコンクールなど、実質上の地方予選を行なったこともあった。

 

結果としてこのところのヨーロッパの室内楽コンクールは、「ヨーロッパ選手権」の様相を呈する傾向にあり、去る5月のボルドー大会はとりわけそんな傾向が顕著だった。今世紀に入って普通に優勝団体を出し始めてからのミュンヘン大会も同様。今回の参加が許されたピアノ三重奏参加23団体の顔ぶれを眺めても、そのほぼ全てがヨーロッパの音楽大学で学ぶ音楽家たちが結成した団体のようである。アメリカ大陸やオーストラリア、南米からの参加団体は殆どなく、ヨーロッパを拠点としない団体は日本のアルク・トリオくらいか。

 

韓国のス・カリア・トリオは韓国人女性3名の団体なのだが、ヨーロッパで学ぶ連中なのかソウルから来たのか、筆者には判断は出来ない。なにせ会場で4ユーロで販売するコンクール公式プログラムにはどの科目も参加者の法的な国籍があるのみで経歴は一切記されていないのだから。このコンクール、広報担当者から出るプレスリリースにも経歴が掲載されるのはセミファイナル以降のみ。予見なく聴くという意味では、清々しいかも。

 

ヴァイオリンは全参加者38名中で韓国人が12名で日本人が5名、翻ってドイツ人は8名である。そんな状況を鑑みるに、ピアノ三重奏部門がミュンヘンARDコンクールの中でも些か特殊な立ち位置にあることはお判りになろう。要するに、普通の室内楽国際大会だったら、ここの2次予選から試合がスタートするのだ。逆に考えれば、1次予選こそヨーロッパの各音大での室内楽の水準や傾向を鳥瞰する格好の機会。今回、筆者が無理にもミュンヘンを訪れた理由のひとつは、そこにあった。

 

筆者がここまで来たもうひとつの理由は、人類史上最も偉大なピアノ三重奏の専門ピアニスト、元ボザール・トリオのメナハム・プレスラー氏が審査委員長を務めると知ったから。この年末で90歳を迎えようというご高齢故に、ミュンヘンのように膨大な量の演奏を聴かねばならぬ大会の審査員委員長などお引き受けになるなどあり得ないと思っていた。この先も、そんな機会はないだろう。ピアノ三重奏の達人は、どのような音楽を良しとし、どのような音楽はダメというのか。実際に老巨匠と同じ音楽を同じ条件で聴き、最終的にこの巨匠が責任を持って下した評価はどういうものなのか。共に体験する価値はあろう。

 

 

  前置きが長くなった。ハイドンHob.ⅩⅤの27から30までの1曲と、とブラームスの2番若しくは3番が課題とされた1次予選について。筆者は初日に演奏した6団体を除く17団体を聴けた。この中から8団体が2次予選に進んでいる。

 

この大会、審査基準や採点方法は毎回の審査委員団に任され公表されていない。そんなプレーンな耳でこのラウンドを聴いての印象に残るのは、バンフ同様にハイドンの難しさである。ブラームスはそれぞれの美点も問題もあるものの、楽譜を再現する作業そのものに問題があるような団体はなかった。やはりピアノ三重奏という形態はロマン派に最も相性が良いとあらためて認識させられた次第。

 

2次予選へと通過した団体と1次で涙を呑んだ団体の最大の違いは、ブラームスとハイドンが性格の違う音楽として聞こえたかどうかだったように思える。正直、どの団体もハイドンの作品の把握に四苦八苦していた感はぬぐえない。ハイドンのピアノ三重奏といえば、アマチュア奏者も大好きな「ジプシー・ロンド」で軽快に終わるト長調作品ばかりが有名だが、今回の課題は正直有名曲とはいえぬものばかり。参加者の殆どが、今回のコンクールの課題曲なので始めて取り組んだのではなかろうか。

 

ペータース版の楽譜には1797年と記されるものの、どうも作曲年代がいまひとつ不明というところからしてトリッキー。エステルハージー宮殿を隠居しロンドンの聴衆も経験した後の最晩年のロマン派に足を突っ込んだ作品と考えて良いのか、はたまたロココの娯楽用家庭音楽なのか? そんな判断からして試合が始まっているのである。要は、奏者の様式感を問われる楽譜なのだ。

 

正直言って、筆者が聴いた17団体のうち、「自分らはハイドンはこういう音楽と思う」という主張が明快に音楽として響いた団体は殆どなかった。所謂「歴史的に影響を与えられた演奏」とか「ピリオド楽器系」とか呼ばれる類いのアプローチを露骨に示したした団体も皆無である。モダンな楽器の奏法を学んだ腕達者な若者たちがあれやこれやと自分らのイディオムの中で楽譜を音にしようとした、という印象は否めない。

 

Hob.ⅩⅤ28を選んだ団体が17団体と多かったのは、あちこちに散見されるロマン派の先走りとも思えるような展開がトリオという楽曲には処理しやすく、3つの楽章が比較的まとまった印象を与えられたからだろう。ただ、第2楽章冒頭のピアノ独奏で左手をどう処理するかなど、はっきりと様式を問われる箇所があったことは事実。

 

機械的に弾くと極めてバロック風に響く箇所だが、筆者に印象的だったのは白井圭がヴァイオリンを弾くシュテファン・ツヴァイク・トリオのコンスタンティノヴァの処理。微妙なルバートを用いこのバスラインをまるでロマン派風に捉えながらも、タッチとペダルの処理でロココ風の軽さを失わせないのは驚きだ。終楽章でも白井圭がフレージングを明快にしつつもレガートな流れを作り、まるでヴィーン人かと思わせる小粋な歌心を披露。ハイドン再現で唯一「また聴きたい」と感じさせてくれた団体である。

 

ハ長調HOB.ⅩⅤ27は6団体が選び、2次に進んだのは2団体だった。そのうちのひとつが昨年7月のメルボルンの覇者トリオ・ラファエルである。ピアニストに日本人の血を半分引くマキ・ヴィーダーケーレを擁するこの団体、残念ながら筆者は彼らのハイドン再現を聴けなかったのだが、どのように処理したのだろうか大いに興味がある。ちなみに2次予選でのモーツァルトでは、ヴィーン風とはまるで異なるものの独特の明確な響きを創り出し、トリオとしての飛び抜けた熟練度を示していた。

 

ピリオド奏法が耳に馴染んでしまった21世紀の聴衆とすれば、ハ長調作品の終楽章などどう考えてもフォルテピアノのタッチと響きで処理した方が楽だろとしか思えない。そんな楽譜を敢えてコンクールという場所に持ち出し、弦とピアノのバランスに苦慮しつつ巨大なコンサート用スタインウェイの枠の中で再現する試練を課したのは、相当に残酷である。逆に考えれば、プロのピアノ三重奏団に拠るモダンな演奏スタイルでのハイドン再現は、この先に革命が起こせる未踏のジャンルなのかもしれない。そういえば、筆者がケープコッドの元ボザール・トリオのグリーンハウス翁宅でハイドンを話題にしたとき、生涯をピアノ三重奏のチェロとして過ごした翁が話題になっている作品がどれか判らなくなり、苦笑しながら練習室に自分のCDを探しに下りていったことがあったっけ。

 

なにやら細かい話になってしまった。大きな流れで言えば、1次予選を通過した団体は、技術は勿論ながら、明快な個性を持った団体であったことは明らかである。ヴィーン風なシュテファン・ツヴァイク・トリオ、もうロシア以外のなにものでもないクラシクス・トリオ、ピアニストがクリフォード・カーゾンを連想させる響きを聴かせてくれたブッシュ・アンサンブルなど、このステージを通るべくして通った感がある。昨年のメルボルン大会にも参加していたライブニッツ・トリオや、地元団体らしくギャラリーからの応援が尋常ではなかったトリオ・アドルノなど、ハイドンを力でねじ伏せるような演奏をしたドイツの団体が2次に進めなかったのは、別の意味で印象的だった。ちなみにこの結果には、客席から不満の声が上がっているようだ。

 

 

以上を記し、トリオの2次予選初日を聴いて地下鉄で宿に戻り、夕食の準備をしながらライブストリーム中継でファゴットのセミファイナルをパソコンで見物する。自転車があれば10分程で到着するところで行なわれている試合を日本のファンとFacebookでチャットをしながら見物するのは、なかなか妙な気分である。深夜遅くに結果が発表される。思い切りの良い豪快な音楽を披露して客席にアピールした小山莉絵が、ファイナル進出を決めた。ファゴットで残った3名は女性ばかりである。

 

なお、同じく発表されたヴィオラ部門では、セミファイナルに日本人出場者はなし。この科目、ヴァイオリン以上に韓国人ばかりという印象である。思えば、カザルスホールがヴィオラ・スペースを始めた1990年代は、ミュンヘンのヴィオラ部門は日本人女性で埋められていたっけ。こうやって時代は変わっていくのだ。ヨーロッパの最先端音楽業界では、もうアジアの時代は終わってこれからは南米という空気が漂っているのだが、中国の勢いは衰えたと言え、まだまだ韓国は元気である。

 

現時点での全ジャンルの生き残りは、こちらの公式ページ一覧表をご覧あれ。セミファイナル以降は、公式ページトップから直接ストリーミング放送に行ける。

 

http://www.br.de/radio/br-klassik/ard-musikwettbewerb/kandidaten/teilnehmer-2013-102.html

 

 

ハイドンという超難関  音楽ジャーナリスト 渡辺和

ミュンヘン便り(その2)

ミュンヘン国際音楽コンクール

Internationalen Musikwettbewerbs der ARD München

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ギリシャ美術館の前を通って音楽院へ。音楽院は第3帝国時代のモダン様式で、お堀端の旧第一生命ビルなどを連想させる。

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