皆さん、こんにちは。または、はじめまして、チェリストの新倉瞳です。

 

3年前に始めたスイス、バーゼルでの留学生活を、弦楽雑誌ストリングにおいて連載していました。留学生活での経験を文字に残させて頂くことで、少しずつではありますが自身の成長を確認出来たり、次の目標に向けて新たに進めることが出来ておりました。

 

留学生活4年目に突入する今、留学前には想像もつかなかったような出来事に恵まれ、スイスでは室内オーケストラに首席としてゲストで弾かせて頂く機会も増え、ソリスト、室内楽奏者として音楽祭にも出演させて頂けるようになり、この度改めてWebアッコルドさまにおいて再びヨーロッパで経験していることを文章を通して皆さんと共有出来ること光栄に思っております。

 

クラシック音楽が人々の日常に溶け込んでいる文化のヨーロッパで生活することで視野が広がりました。 ガット弦やクラシック弓を用いて演奏することや、コンサートツアーでもプライベートでも旅に出ることが増え、沢山の人々と出会い価値観の違いを感じました。

 

日本という国の素晴らしさ、また日本で培ってきたことへ改めて誇りを持ちましたし、相反して時には疑問を持つこともありました。数式には正解があっても、生きている限り、わたしたち人間に「正解」を与えてくれるものはありません。 

 

クラシック音楽も、「正解」が日々進化し、遠ざかり、様々な価値観に支えられ、今日まで歌い継がれてきました。 

 

私を通して、クラシック音楽に精通する方々にも、そうでない方々にも、クラシック音楽の見解を深め、様々な価値観を受け入れ視野を広げて頂けたらと思います。

 

 

 

 

Q:子どもの頃の夢は?

 

A:画家になることでした。
想像力豊かな子どもだったようで(現在も妄想族)、本を読んでは登場人物を想像して描くことが幼少期の趣味でした。 今でも時々描き、美術館巡りが大好きです!いつか絵画と音楽をコラボレーションさせた演奏会なりプロジェクトを実現させたいと思っています。

 

(2013.8.7)

 

新 倉 瞳

Hitomi Niikura(Cello)

音楽×私

9人のリレーコラム 〈8月7日〜〉Q:子どもの頃の夢は?

 

まずは自己紹介

 

アッコルドをご覧の皆さま、はじめまして。ヴァイオリン弾きの﨑谷直人です。この度はアッコルドの新コラムに筆者の一人として参加させて頂ける事を大変光栄に思っております。

 

このコラムは、様々なジャンルの若手奏者が日替わりで各自が想いのままに読者の皆さまに気持ち伝えるということで、僕もこれまでの経験、またこれからの活動で実践してみたいと考えていることなど、その時々にテーマを選びながら皆さまに楽しんで頂けるよう、努めて参ります!

 

今回は初回ですので、皆様に僕のことを知って頂くために簡単に自己紹介がてら、僕のこれまでの勉強の過程について簡単にお話したいと思います。今回ここで書いた事は、今後コラムの中で深く掘り下げてじっくり書いていきたいなと考えています。今回はさらっと簡単に。プレリュード的な感覚で…。

 

子ども時代のヴァイオリンとの関係

 

僕は多くの音楽家の皆さんと同じように、小さい頃からヴァイオリンを始めました。4才頃だったかな。親は別に音楽家ではなく、車の金型を作る小さな町工場をやっています。

 

僕は桐朋学園の音楽教室でヴァイオリンを勉強していました。ヴァイオリンを弾いてみたいと言ったのは自分からでしたが、始めたものの中学生あたりまではヴァイオリンを弾くことは好きでもなんでも無かったですね。むしろ嫌いだったかもしれません。

 

先生も厳しいなんて言葉じゃ収まらないほど厳しかったです。楽しむ余裕なんて全く無かったですね。でも先生にはとても感謝しています。

 

そんな中めげずに続けているうちに子どもながらに上達し、コンクールに入賞したり、ある程度の結果が出せました。結果がついてこなければきっとすぐに辞めていたでしょう……。逆に言えば、結果が着いて来たから「辞められなかった」のですが。子どものうちなんてそんなものですよね。自分の意思で何かを考えたり決断したりなんて僕には出来ませんでした。今の子どもは、ませた子が多いから、そんなことは無いのでしょうか?(笑)。

 

ケルン留学で見た「世界の壁」

 

当時は、学校で朝と放課後に友達と思い切りバスケをするのが楽しみで仕方なかったです。ちなみに、今はもう怪我が怖くてボールも触れませんが! 全ての面で子どもだったのですね。

 

そんな子ども時代にいくつかの国際コンクールのジュニア・セクションで入賞した後、15歳の時にケルン音楽大学に入学し、ザハール・ブロン先生のクラスに入りました。そこまでは割りと順調でしたね。左小指の大怪我を除けば(いつか詳しく書きますが今回はスルーで!)。

 

当時のクラスはとてつもなくレベルが高く、世界中から優秀な生徒が集まっていました。その時、人生ではじめて世界の壁を見たような記憶がありますね。それはもう落ち込みました。

 

中でも同い歳の木嶋真優ちゃん。あの子は上手かった! 今でも、僕は同世代で一番実力のあるヴァイオリニストの一人だと思っています。いつかオケにソリストで来て欲しいですね。

 

他にも庄司紗矢香さん、エリック・シューマンさんetc……。そんな環境で自分を見失い、自分がヴァイオリンを弾く意味があるのか、初めて真剣に考えました。人生初の挫折だったと思います。

 

「救世主」との出会い

 

そんなカルチャーショックの中、知人を通してパリのジェラール・プーレ先生と出会いました。弾き姿が美しく、ヴァイオリンを弾くことを心から愛しているような、そんな人でした。ちょっとクサイ言い方ですが、当時自分にはそう映りました。

 

ヴァイオリンに対して心を閉ざしていた自分にとっては救世主、太陽のような人でした。あの時先生と出会わなかったら、僕は本当にヴァイオリンを置いていたかもしれません。

 

プーレ先生のおかげでやる気を取り戻した僕は、その後、パリ管弦楽団のコンマスのロラン・ドガレイユ先生の元で勉強しました。これがまた……これまで見てきたどの演奏家より、ズバ抜けて上手かった!! 衝撃でした。初めて触れた「世界クラスのコンマス」でした。ついこの前の挫折がチッぽけに思えて、吹っ切れたのはこの人を見たからかもしれません。

 

このお二人の元で、それまでのロシアのスクールとは全く違う弾き方を教わりました。個人的には、「ヴァイオリンを弾く」ということ自体に(テクニック的なことも精神的な部分も)かなり行き詰まっていた時期でしたので、フランスで新しい気持ちでヴァイオリンを勉強出来たことは、今思い返しても大きな転換期になったと感じます。

 

ウェールズ弦楽四重奏団結成

 

その後日本へ戻り、桐朋学園のソリストディプロマコースに入ったのですが、その時にはすでに僕の頭に「ソリストになりたい」という発想は皆無になっていました。それまでに散々、世界のレヴェルを肌で体感していたわけですから当然です。ソリストディプロマというコースの名前と趣旨に反していて、桐朋学園には大変申し訳ないと思っております(笑)。

 

原田幸一郎先生についたのも、大きな影響がありました。先生についてすぐにクァルテットを組み、勉強を始めました。それが「ウェールズ弦楽四重奏団」だったのですが、まさかそれがここまで続き、自分の演奏家としての基盤になるとは、当時は想像すらしていませんでした。

 

21歳の時にミュンヘン国際音楽コンクールのクァルテット部門に入賞し、その時点でプロフェッショナルとしてのキャリアを始めることも選択肢にありましたが、当時の自分にはその覚悟がまだありませんでした。

 

プロフェッショナルとは

 

僕が考える「プロフェッショナルな音楽家」とは、とてもシンプルですが、「人のために音楽をすること」です。もちろんお金を頂いて演奏すればそこに責任が生じる訳ですからプロの演奏家なのですが、それ以前に、人として人のために何かをするという精神性こそがどんな分野においてもプロフェッショナルと呼ばれる大前提ではないでしょうか。

 

お客様のためはもちろん、例えばオケならば一緒に弾く団員一人ひとり、事務局で支えてくれる人たち、ステージ裏で演奏家を励ましてくれるステマネ。クァルテットの仲間やマネージャー、ホールのスタッフ。全ての人たちが一つになり演奏会が成り立つのであり、自分もその一部になるという気持ちがあるかどうか。そしてそれが巡り巡って自分に返ってくる。これがプロフェッショナルではないでしょうか。

 

スイス留学

 

そんな風に考えるようになったのはつい最近で、21歳当時の自分はまだ、誰のためでもなく「自分のためにもっとクァルテットを弾きたい、勉強したい」と考えていましたね。まだまだ勉強不足でしたから。

 

そのため、スイスのバーゼルで勉強することに決めました。若いうちは、「自分がどうしたいか」をとことん考えて突き進むことが出来るし、その気持ちが勉強する原動力になります。この発想は完全に幸一郎先生の影響ですね。僕がもうこの辺でいいかな?と気が緩んだ頃に、先生に眈々と「まだまだ話にならないね、君」と言われていた記憶があります。

 

ミュンヘン入賞直後の当時、目の前にある仕事やチャンスをリセットしてまでもう一度ヨーロッパで勉強するというのはかなりのリスクでしたし、不安でいっぱいでしたが、同じ想いでバーゼルで勉強する仲間がいたのは幸せなことでしたし、じっくり音楽を勉強するラストチャンスでした。

 

他人の音と混ざり合い成り立つもの

 

バーゼルではハーケン四重奏団のライナー・シュミット先生のもとでクァルテットを勉強したのですが、これまでに勉強してきたいわゆる「ヴァイオリンを弾く」こととはかけ離れ、「音楽をする」勉強をしました。四声の全ての音に神経を傾け、ハーモニー、リズム、アンサンブル、とにかく一緒に弾くということは何かを徹底的に勉強しました。

 

音楽は一人で出来るものではなく、他人の音と混ざり合い成り立つものです。その基本がクァルテットには詰まっています。単純にリズムや音程を合わせて、はい完成という訳にはいきません。もっと徹底的に、突き詰めるのです。

 

また、ドイツ語圏の古典からロマン派、近現代のスタイルをしっかり勉強出来たのもとても大きな財産です。和声感、語法、ボウイングやヴィブラートの使い分け等々、ソロの勉強だけでは学べないことが沢山ありました。バーゼルで仲間と共に過ごした約3年は、貴重な時間でした。それ無しに今の自分はありません。日本に戻り、他の現場で弾く時もバーゼルで勉強したアンサンブルは基本になっています。

 

たった4人ですがコミュニケーション能力も求められますし、人間勉強にもなりました。もちろん全てが上手くいったわけではありませんが、メンバー交代や紆余曲折を経ても、クァルテットが7年目になる今も継続して活動出来ていることは、僕の音楽家としての唯一の誇りかもしれません。

 

これからが正念場

 

ここまで、僕が学生の間に勉強してきた過程を簡単にご説明させていただきました。こんな僕ですが、日本に帰国し演奏家としてキャリアをスタートさせました。

 

バーゼルから帰国することを決めた時、今後どのように演奏活動していくか、日本で自分が必要とされるだろうかと本当に悩みました(ストレスでぶっ倒れるくらい)。それでも、どうにか音楽家としてやっていける目処がたったのは、周りで支えて下さる皆さんのおかげです。

 

僕は今後も自分の信じた道を進み、でも柔軟に、失敗したら反省してまた努力を繰り返す。そうやって音楽家としての実績を積み、多くの人と関わり未来に繋げて行きたいなと考えています。幸いなことにクァルテットにしろオケにしろ、自分にはその環境が整ってきたのでこれからが勝負です!!

皆さまに、見守って頂けたら幸いですm(_ _)m

 

初回は、なんだか真面目で堅苦しくなってしまいましたが、次回は僕の趣味やリラックス法についてお話ししたいと思います。

 

 

 

Q:子どもの頃の夢は?

 

A:子どもの頃の夢……、無かったです。夢より何よりヴァイオリンから離れて学校でふざけまくるのが楽しみでしたので。今のほうが夢いっぱいです。

 

(2013.8.9)

 

 

﨑 谷 直 人

Naoto Sakiya(Violin)

2005年夏。ドガレイユ先生のレッスン。

中学生の頃。

ウェールズ弦楽四重奏団

(三原 久遠、横溝 耕一、﨑谷 直人、富岡 廉太郎)

http://verusquartet.net

はじめまして!

銘苅麻野、めかるあさのっていいます。

 

銘苅は沖縄特有の苗字で、地名にもあります。

父曰く先祖を辿れば、羽衣天女と結びつくらしいです。

 

麻野という名前は、麻のように強く健康で、野原のように広い心を持てるようにと、母が付けてくれました。

少々名前負けしていますが、とても気に入っています。

 

今回リレーコラムにお誘い頂いて、嬉しい反面、わたしなどが加わっていいのか、いささか緊張しております。

天女の末裔、がんばってコラムを書いていきたいと思いますので、あたたかい目で読んでくださると有り難いです。

 

わたしは、ヴァイオリンを弾いていて、そして、時々作曲もしています。

 

初めて作曲したのは、中学1年生くらいのとき。仲の良い友達三人に一人一曲ずつ曲をプレゼントしたときだと思います。

ピアノで、その友達のあだ名や雰囲気から調性を考え、30秒くらいの簡単な曲ですがつくっていました。休み時間の音楽室でそれを披露して、「よくわかんないけれど、ありがとう」と友達たちは受け取ってくれました(笑)。

その後、高校生のとき同級生から「短編映画をつくったので、なんか音楽つけたいんだけど」と話を持ちかけられ、ピアノの友達と即興でふざけてつくったものを提供したところ、喜んでもらえたりという経験が良い思い出になっています。

 

沖縄から上京して、音大卒業後、人と人とのつながりに感動して初めてつくった歌詞を友達に聴いてもらったところ「せっかくだから、ライブやってみたら?」とすすめてくれて、更に「どうせライブをするんだったら、3曲入りのCDつくってみたら?」と勧められるまま、流れに身を任せて、気づくと10曲入りのアルバムを2枚つくっていました。

 

本当にわたしは、まわりに恵まれています。

快く、文句ひとつ言わず、むしろ楽しんで手伝ってくれる、尊敬する仲間がいて、それを聴いて喜んでくれる両親、友達がいます。

こんなに幸せなことはないと思います。

 

感謝の気持ちでいっぱいです。

 

そんな、めかるの2枚目のアルバム、

「カラフル」発売記念コンサートあります!!!!

 

8月14日(水)

@渋谷東急セルリアンタワー2F

「jz brat」

17:30開場

19:30開演

ご予約¥3000/当日¥3500

 

ご予約・お問い合わせ

03-5728-0168 (平日15:00〜21:00)

http://www.jzbrat.com

 

 

ぜひぜひ遊びにきてくださいね☆☆

 

 

 

 

Q:子供の頃の夢は?

 

A:ラジオのDJ

小学生のときから聞いていたラジオで、大好きなDJがいて、中学生のとき、ハガキを送り続け、

やっと読まれてすごく嬉しかった思い出があります。

そのときのペンネームは、「首里城の幽霊」

・・・なにも言わないでください。

 

 

次回は、わたしのオススメ! 音楽漫画についてです。

 

(2013.8.12)

めかる

Mekaru(Violin)

原 田 真 帆

Maho Harada(Violin)

うさギ誕生秘話

 

いきなり趣味の話、しかも変なうさぎの誕生秘話と言われても、そもそもあなた誰よという感じだし、誕生秘話というのはのちのち語られれば良いことじゃないか ……などなど、様々なつっこみが飛んできそうであるが、あえて書かせていただきたいと思う。「うさギ」はわたしの分身と言っても過言ではない。うさギのルーツを語ることは、わたしを語ることに等しい。

 

わたしは小さい頃から絵を描くのが好きだ。物心つく頃にはすでに「お絵描きが好き」という気持ちがあった。お絵描きは心安らぐ趣味として、ずっとわたしを支えている。ちなみに、ここで言う「絵」とは本格的な油絵やデッサンではなく、あくまでイラストである。そしてわたしの絵は、自分が触れているものや置かれている状況にいつも影響を受けている。

 

No 自由帳 , No school life .

 

幼稚園生の頃は絵本やキンダー社のワンダーブックで育ち、小学1年生になると母から読書の愉しみを教わった。この時代は本の挿し絵のような、あえて言うなら1コママンガのような、お話の1つの場面を切り取って絵を描いていた。題材は、読んだ本やアニメから取られることもあれば、自分の想像の世界からストーリーが出てくることもあった。当時使っていた何冊にも及ぶスケッチブックはまだ保存してある。

 

小学3年生の時に小学生新聞を取り始めて、初めてマンガに触れた。小学生新聞にはニュースや学習のページ、連載小説の他に日替わりで何種類かのマンガ連載があるのだ。愉快なキャラクターたちが枠をまたいで話を展開させていく様子に惹かれ、まもなく自分でも自由帳に描き始めた。最初は大好きなキャラクターであるペンギンのピングーが主人公だったと思う。2作目は登場人物も自分で考えて完全にオリジナルな作品になった。しかしだいたい数か月描くと、話のつじつまが合わなくなり、こんなんじゃだめだ、と連載は突然中止されて、そういえばこの前から温めていた話を描いてみようか、というような感じで新作を描き始めては、また中止になってしまう、というのがパターンだった。今もその自由帳はすぐ手が届くところに置いてあるが、我ながらストーリー展開がひどい。無茶が多い。

 

空想が止まらない

 

中学に入ってからは、小学6年生の時に描き始めたマンガを完成させたい気持ちをずっと持っていたものの、日曜大工ならぬ休み時間絵師だったため、読書を優先したら描き進める時間がなくなってしまった。代わりに、授業中プリントの空きスペースに落書きをするようになる(もちろん先生には内緒だ)。これから描くつもりのシーンで出てくる登場人物、それは主に同世代の少女だったが、また昔の1コママンガのように気楽に描いていた。この頃描いていた作品には、ビクトル・ユゴーの『あゝ、無情』、二ノ宮知子の『のだめカンタービレ』、エーリヒ・ケストナーの『ふたりのロッテ』、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』などにインスパイアされた登場人物が出てくる。オリジナル作品をうたっておきながら、その頃読んだ本のキャラクターがあまりにもそのもので登場してくるのがわたしの作品の特徴だ。『名探偵マリーと謎の金髪美人』というタイトルのそのマンガは唯一飽きずに描き続け、なおかつ完結しないまま今も長い休載期間の最中である。

 

シンプルな絵柄を求めて

 

そして中学3年になって、もっと簡潔でストレートな主張をする絵を描きたいと思い始める。つまり、オリジナルのマスコットキャラクターがほしくなったのだ。同じく絵を描くのが好きな友人が、ささっと動物のイラストを描いたのを見て、心底うらやましくなった。自分にもオリジナルキャラクターはたくさんいる。しかしどれも人間かせいぜい猫人間なので描くのにいちいち時間がかかる。友人の絵を見て、その時間がじれったくなった。また、人の絵は描ける時描けない時のムラが激しく、例えば「絵を描くのが好きです」と自己紹介をして、じゃあ描いてみてと言われた場合にうまくいかないと、面倒なことになる。そこで、即戦力になるのはマスコットキャラではないかと考えたのだ。

 

そこから試行錯誤が始まった。と言っても音楽と違ってあくまでも趣味なので、そんな真剣に紙と向かい合ったわけでもないが、アイデアが降ってくるのを待っていつもアンテナを伸ばしていた。はじめはきつねのキャラクターが生まれた。金釘文字の進化系のよつな絵柄にしたのでえらく短時間で描ける。しかし汎用性に欠け、これはつまらんと思ったわたしは、先の友人のことを思い出した。彼女はわたしを動物に例えるとうさぎだと言いながらうさぎのイラストを描いてくれた。そうだ、オリジナルキャラクターなんだから、わたしの代わりに紙の中で動き回ってくれる、自分にとって愛おしい存在にしたい。こうして生まれたのが「うさギ」の前身だ。

 

空飛ぶうさギ

 

突然の思いつきでマスクとゴーグルを被せ、ライト兄弟が作ったような飛行機に乗っている設定にした。名前がなかなか決まらず、しばらくはラピと呼んでいた。うさぎと共に高校に入学し、さらに2年かけて、マスコットキャラクターの肩書きに耐えうるだけの個性を磨き、絵柄の質の向上に努め、安定して描けるようにした。おそらく高校2年生の頃に、うさぎと呼ぶようになり、ひとひねり入れようとひと文字だけカタカナにした。全部試した結果「うさギ」が一番しっくり来たが、安易な名前なのは否定できない。

 

高校2年生の1月、卯年がやって来た。それまではインディーズの状態だったうさギを、年賀状に採用してメジャーデビューさせた。以来、このキャラクターはわたしの持ち物を彩り、卯年でなくても年賀状を飾っている。また、わたしの友人のロッカーの扉にステッカー風のイラストを貼り付けたりして、大学の中に何匹か棲息している。今年からは季節ごとにテーマを設けることにした。2013春夏コレクションは『うさギの水兵さん』である。

 

新・3大「美しいもの」

 

絵を描くことと、数学と音楽がずっと好きだった。好きになるのは理性ではなく感性の問題だから理由もなにもないのが、あえて言うなら、世界共通言語であるところかもしれない。三大「言語を超えるもの」は絵と数字と音だと思う。神さまはバベルの塔を壊しても、本当に美しいものは残してくれたわけだ。

 

……とまぁ、初回からいきなりマイワールド全開で書いてしまいましたが、みなさまはじめまして。わたしは原田真帆といいます。現在、東京藝術大学の2年生でヴァイオリンを専攻しています。もともとは一生続けられる趣味を持たせたいと考えた両親の勧めでヴァイオリンを始めましたが、そのうち音楽を自分の仕事にしたいと思うようになり、この道を選びました。

 

このように好きなテーマで書いた文章を人前で公開することは初めてで、正直なところ大変どきどきしていますが、このリレーコラム、わたしのページでは、音大生はらだが日常の中で思ったことや考えていることを綴っていきたいと思います。みなさまに楽しみにしていただけるようにがんばります。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

Q:子供の頃の夢は?

 

A:指揮者。

小さい頃の夢について、今でもはっきりと憶えている出来事があります。幼稚園年中の頃、将来の夢をテーマに版画にしたことがありました。A5くらいの発泡スチロールに鉛筆で溝をつける、とても描きやすい版画です。その時わたしは何の迷いもなくオーケストラの前に燕尾服を着て立つ自分の図、つまり指揮者を描きました。理由は憶えていないけれど、もしかしたら描いた当時も特に考えはなかった気がします。ひとりひとりに声をかけて回っていた先生に、まほちゃんはヴァイオリンをやっているんだもんね、と言われて初めて、あぁヴァイオリンはどうしようと思いましたが、まぁなるようになる、最終的にはどっちもやればいいや、と思って、わたしは再び絵を描き始めました。楽観的な子です。その絵は残っているのかわかりませんが、わたしの記憶の中にはしっかり焼きついています。今も再現できるレベルで。いや再現しないけれど。版画は大変なので。

 

(2013.8.14)

皆さん始めまして。チェロ弾きの大宮理人です。

 

僕の名前、初めて見て正しく読めた人は今まで一人もいないのですが、なんて読むのかわかりますか??

 

マサト! リヒト!! リジン!!!

 

皆、頭を捻って考えてくれるのですが当ったことはありません(笑)。

 

「理(ことわり)」と「人」の二つの漢字でヨシトと読みます! 特殊ですよねw

 

「理」という字を使うだけあって、名前には《よく考える人》の意味が込められているのですが、自分が過ごして来た23年間、果たしてちゃんと頭を働かせていたのだろうか?と思うと少し自信がありません。

 

そんな僕が、尊敬する先輩達と、リレーという形でWebアッコルドに記事を書かせていただくことになって、『大丈夫なのか理人!?』と内心ビビッてます(笑)。

 

四人兄弟(全員男)の末っ子に生まれ、母が教えるピアノと、父が家で流すクラシックやジャズ、そして8歳年上の長男(臨太郎)の弾くヴァイオリンの音に憧れ、チェロを始めて16年。子どものころは、熱血な母と二人でがむしゃらに練習していました。よく防音室で泣きながら弾いたのを覚えています。

 

桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)に進学。音楽教室などに行ってなかった自分にとっては、桐朋で初めてできた《同年代の音楽仲間》というのはとても新鮮で、競い合ったり、共演したり、お互いの違った価値観をぶつけ合ったりと、がむしゃらにやっていた子供時代とは違って、音楽をすることの楽しさと難しさを感じていたと思います。

 

そんな中出会った桐朋チェロアンサンブル。

その名のとおり桐朋の「チェロ科」、 高校生、大学生、院生、ディプロマ生、研究生が有志で集まり、プログラムやチラシは勿論、楽譜のないものは耳コピーしてチェロアンサンブル用に編曲したり・・・。同じ楽器の学生が集まって演奏会を作るというのは、とても楽しいものでした。

 

その影響で、今は学生時代の仲間3人と共に『Paulownia Cello Quartet』を結成し、チェロ4本で、いろいろな曲を演奏しています。

 

僕が言うのは変かもしれませんが、チェロという楽器は本当に万能で魅力ある楽器なんです!

 

チェロだから出来ること! アンサンブルの楽しさ! チェロの秘められた可能性! (お伝えできるか不安ですが)

ちょっと持ち運びは大変ですが、、、

 

皆さんにチェロの楽しさ、音楽の素晴らしさを少しだけでもお伝えできたらと思います!

 

 

 

 

 

Q:子どもの頃の夢は?

 

A:玩具屋の店長

チェロを始めて少し経った頃ですね。近所のお姉さんに『よっちゃん将来何になりたいの?』と言われ、玩具とゲームが大好きだったので(今でもそう)最新のゲーム、最新の玩具をいち早く遊べるであろう玩具屋の店長になりたいと正直に答えました。『お母さんには内緒だよ?』と念を押したはずだったのに、その日の夜は母とプチ家族会議だったのを覚えています(笑)。

 

​(8.162013.8.16)

大 宮 理 人

Yoshito Ohmiya(Cello)

はじめまして^^

ヴァイオリニストの荒井桃子です。

これから「音楽×私 9人のリレーコラム」を書かせて頂く事となりました。

どうぞよろしくお願い致します!

まずは初回なので、私という人物を少しでも知って頂ければと思います☆

 

今行なっている活動の原点は大学時代。多様な楽曲で活動しているクラシックギターデュオ「いちむじん」との出会いでした。3歳からクラシック音楽しか弾いたことのなかった私は、彼らと一緒に演奏することで一気に音楽の視野が広がり、その出会いがきっかけで様々な音楽に触れ、ジャンルで括らないライブを自分でプロデュースするようになりました。

すると、「新しい世界を体験できてすごく楽しかった! ありがとう!」という声を多く頂き、それはそれは本当に嬉しかったものです。

それからは、オリジナル曲を提供して頂いたり、自分で作曲してみたり。新しい音楽や自分で産み出す音楽の魅力も知り、積極的にライブに取り入れるようになりました。そして今に至ります。

 

聴きにきてくださる方がいるから私はライブができて音楽ができて、また頑張ることができる。お客さまの笑顔やありがとうの言葉、そして温かい拍手を頂くと本当に音楽をやってて良かった、もっと頑張ろう!と毎回ライブを終える度に思うのです。私の最も幸せな瞬間です!

 

私は私なりに音楽を一生懸命伝えていく。でも決して一方通行な音楽にならないように。聴いてくださった方の心が少しでも動いたり、夢や希望を感じて何か一歩でも踏み出すきっかけになれるような、そんなヴァイオリニストでありたいと思っています。

どうしても音楽はジャンルに括られてしまいがちですが、私は特にジャンルにこだわりを持ちません。ひとりひとりの音楽があると思っているからです。

「あの人の音楽が好き!」そう思える音楽が好きだし、私の目指すところ。

今年5月にはオリジナル曲を中心とする1stアルバム「voice of me」をリリースしました。「桃ちゃんらしいアルバムだね!」「桃子がきたぞーー!って感じがすごく好き!」など、少々抽象的な声もありますが(笑)、ありのままの自分を表現したかった私としてはとても嬉しいコメントでした。

 

音楽のこと、プライベートのこと、今思うこと感じること・・・

色々と交えながら楽しいコラムを書いていきたいと思っています!

初回ということで、少々緊張?気味な荒井桃子でした!(笑)

また次回お会いしましょう~^^!!!

 

 

 

 

 

Q:子どもの頃の夢は?

 

A : ずっと変わらずヴァイオリニストです。

「みんなの前で1人で弾く人になるの」と言っていました(笑)。つまりソリストのことですね。ソリストという言葉をまだ知らなかったのです(笑)。

 

(2013.8.19)

 

 

 

◆LIVE info◆

9月8日(日)

Momoko Arai Violin LIve Show PASSION&SORROW ~autumn~

 

vn.荒井桃子

pf.金益研二 perc.神田リョウ

 

@アート・カフェ・フレンズ(恵比寿)

開場18:00 開演19:30

チケット:3,000円+1drink

 

【ご予約】

フロレスタン

 03-6457-4695

 info@florestan.co.jp

 

アート・カフェ・フレンズ

 03-6382-9050

荒 井 桃 子

Momoko Arai(Violin)

クラシックギターデュオ「いちむじん」と

クラシックギターデュオ「いちむじん」と

アート・カフェ・フレンズにて

クリックすると画像が拡大します

みなさん、はじめまして。チェロの小野木 遼です。このコラムのメンバーに加わることになり、大変光栄に思う反面、若干緊張しています。まずはご挨拶の意味も込めて、僕のことを知っていただけたら嬉しいです。

 

 

将来は力士?

 

 

1987年、試される大地、北海道の置戸町にて出生。4,200gの巨大児で、祖父はその姿をひと目見るなり「この子は相撲部屋に入門させよう」と固く決心したそうです。

 

また、その巨体ゆえに運動神経も非常に鈍く、「イヤイヤ」と首を振るだけで脳震盪を起こしかけたり、他の子が走り回っていても這うことしか出来ない。同年代の子に叩かれても反撃はおろか、そちらを振り向くことすら難しいというダメっぷりで、両親はひどく心配したそうです。でも、保育園に上がる頃には体型も「普通の子」になり、おかげさまで今のところはまだなんとか中肉中背を保っております。

 

ピアノよりも大事だったもの

 

音楽との関わりでは、小学校に上がる少し前にピアノを習い始めたのが最初です。始めて3週間くらいは楽しく弾くことが出来たのですが、その後は嫌で仕方なくて、「練習する」と宣言するも部屋でゲームをしているといった状況がほとんどでした。でも、そもそもさほど音楽教育に熱心ではなかった両親は、そんな僕を叱ったりはせず、のびのびと育ててくれました。

 

その甲斐あって(?)、今でもピアノは残念ですが、ゲームは人並み以上にやっております。

 

チェロとの出会い

 

小学校の高学年の頃に生まれて初めて「チェロ」という楽器の演奏会に行き、その深みのある音に衝撃を受けました。

 

帰り道に「チェロを始めたい」と両親に相談するも、地域に先生がいないこと、楽器が高額なことなどが原因で、最初は難色を示されましたが、なんとか安い楽器を買ってもらい、音を出して楽しむ趣味のチェロ弾きをやっておりました。

 

「出会い」で状況が一転

 

中学生も終わりに差し掛かった冬のある日。隣町の網走市に新しくコンサートホールが出来、こけら落としに東京からチェリストが来る、ということを聞き、母と共に演奏会に出かけました。

 

当時の僕は全く無知で「こんな田舎でチェロの演奏会なんて珍しいな」くらいにしか思っていなかったのですが、今から振り返るとこの時の出会いが自分のターニングポイントになったと思います。

 

チェリストは、山崎伸子さん。

 

自分と同じ楽器だとは思えないほどの伸びやかな音。音楽を本当に愛しているのが伝わってきて、とても幸せな気持ちになりました。

 

その時、知り合いのヴァイオリンの先生と共に会場を訪れたのですが、先生は山崎さんの桐朋時代の同級生ということもあり、楽屋に伺うことが出来たのです。僕は、「サインでももらおうかな」くらいの気持ちで着いていき、ひとしきり話し終えた頃、ヴァイオリンの先生が唐突に「この子もチェロをやっているのよ」と、僕のことを紹介してくださいました。

 

すると山崎さんは「あらそう。じゃ、弾いてみなさい」と、趣味に毛が生えた程度の僕に自分の楽器を貸してくださいました。ドレミも満足に弾けないような状況でしたが「偉い先生の前で弾ける機会はそうないぞ」と謎の開き直りで弾いたのを覚えています。今考えるとゾッとしますが……(笑)。

 

先生の第一声は「全部中途半端。このままじゃダメ。とりあえず春休みに一度東京に来なさい」とのことでした。

 

当時は「なんとなく普通大学に入って、なんとなく就職するんだろうな」と思っていたため、大変悩みましたが、この時、音楽の道を志してみようと決意しました。そして、地元北海道の先生も紹介していただき、先生方の熱心なご指導のおかげで、なんとか芸大に入ることが出来ました。

 

かけがえのない友人たち

 

そこは、北海道のど田舎から上京して来た僕にとって、大変なカルチャーショックでした。付属高校からの人たちはとても上手で、一時は学校を辞めようかとも考えましたが、友達が出来てくるとそんな考えはあっという間になくなりました(笑)。

 

毎晩、遅くまで練習して、ご飯を食べて、酒を飲む(適度に・笑)、という生活で、練習(学校)が楽しくて仕方ありませんでした。この頃の友人たちから学んだことは数多く、今でもかけがえのない友人たちです。

 

最近、以前より増して、音楽を演奏したり、聴いたりすることに心からの喜びを感じるようになりました。これからも両親、先生方、友人たちからいただいたこの想いを大切に、音楽をすることの喜びを皆様と共有できるように頑張りますので、よろしくお願いいたします。

 

なんだか自伝のようになってしまいましたが(笑)、最後に共通の質問に答えたいと思います!

 

 

 

 

 

Q:子どもの頃の夢は?

 

A:漠然とですが、地質を研究するのは面白そうだ、と思っていました。文系だったのですが、理系の教科の方が成績も良かったので(笑)。

 

(2013.8.21) 

小 野 木 遼

Ryou Onoki(Cello)

皆さま、初めまして。ピアニストの石塚彩子です。この度、アッコルドのリレーコラムに参加させていただくことになり、とても嬉しく思います。9人によるこの連載に、なぜか一人だけ、弦楽器奏者ではないピアノ弾きの私が紛れ込んでおりますが(笑)、どうぞよろしくお願い致します!

 

もちろん演奏する楽器はピアノですが、実は弦楽器とも長きにわたってご縁(?)があります。その辺りのことも含めながら、まずは自己紹介を。

 

東京で生まれ、父親の転勤に伴い2歳で米国東部のニュージャージ州に渡り、3歳より現地でピアノを習い始めてから数ヵ月後の初めてのピアノの発表会で弾いた曲は……

サンサーンスの「白鳥」でした!
(もちろん子ども用にアレンジ。でも一応、両手でした。)


「白鳥」は、ピアノのためのオリジナル曲ではなく、元は室内楽やオーケストラで演奏される組曲の中に登場する、とっても優雅で美しいチェロのメロディー♪♪ 当時、習っていたピアノの先生のナイスな選曲に感謝です☆

 

それから数年後、9歳のときにニューヨークのスタインウェイ・ホール(買収されてしまって、本当に残念です。。)でリサイタルを行ないました。そのときも、ピアノ・ソロの演奏のみならず、当時父の同僚で昔ヴァイオリンを弾いていたという方が賛助出演してくださいました。ベートーヴェンのスプリング・ソナタの第一楽章を共演し、無事に室内楽デビュー(?)を果たすことができました! リサイタルを終えた直後に、「ソロよりもヴァイオリンといっしょの方が楽しかった♪」と周りに言っていたそうです。

これら幼少期の頃の音楽的体験などに加えて、その後に師事した先生方もソロのみならず、室内楽奏者としても活発に演奏活動を行なっていたことも、私自身に大きな音楽的影響を与えたと思っています。師匠が自らの共演者を紹介してくださったり、師匠のコンサートで私自身が頼まれた譜めくりの経験を通して、弦楽器&ピアノのためのレパートリーに早い段階から慣れ親しむことができたのは、財産だと思います。

 

米国での楽しかった&大変だった子ども時代を経て10歳で帰国し、地元・川崎市の公立小中学校そして横浜にある県立神奈川総合高校を卒業後、18歳で再び海外に出ました。様々な出来事が重なって決まった留学先は、ジュネーヴ高等音楽院。ジュネーヴは周囲をぐるりとフランスに囲まれた、スイスの西の端っこに位置する街です。

 

国際機関も多くあり観光都市なので英語ももちろん通じますが、音楽院の授業は基本的に全てフランス語。最初の数年間は毎日泣きべそをかきながら過ごし、挫折の連続でもありました。が、そこは日本にいる家族や現地にいる仲間の支え、そして持ち前の鈍感力を最大限に発揮し(笑)、何とか身体も壊さずに留学生活を送ることができました。ピアノソロ、音楽教育学、ピアノ伴奏法の三つの修士課程で学び、全て無事に修了することができました。ピアノ伴奏法の課程に在籍中も、やはり弦楽器との共演が多かったです。

 

留学生活を終えて帰国後しばらくは、久しぶりの日本での生活に慣れるのに時間もかかり、冬眠状態(笑)が続きました。さすがにこのままではイカンと、本当に少しずつではありますが、地元でピアノを教え始めたり自主コンサートを開催したりしました。

亀の歩みでマイペースにやっていましたが、ご縁があって昨年秋からサントリーホール室内楽アカデミーのフェローとなりました。もちろん共演者は弦楽器奏者が中心で、お互いに助け合い刺激し合いながら、音楽的にも人間的にも成長している(はず)です! そして多くの素晴らしい音楽家だけでなく、それらの人々をサポートする方たちとの素敵な出会いもあり、とても充実した時間を過ごすことができています。

 

簡単な自己紹介と言いつつも少し長くなってしまいましたが、今回はこの辺で。これから連載の中で、音楽全般について私が日頃、考えていることや感じていることを綴っていけたらなと思っています。

 

 

 

 

Q:子どもの頃の夢は?

 

A:せっかくなので写真を。小学校6年生の時に、卒業文集に書いていたことです。完ぺきではないけど、三つともある程度は実現できているかな……?

 

(2013.8.23)

石 塚 彩 子

Ayako Ishizuka(Piano)

当時、使っていた「白鳥」の楽譜の表紙。ここが音楽人生の原点。

ジュネーヴ市内。手前がレマン湖、奥に見える尖塔がサンピエール大聖堂

ジュネーヴ高等音楽院・大ホールにて。ヴァイオリンとピアノのデュオ・コンサート

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はじめまして♪

チェロ弾き、アレンジャーの小林幸太郎です。

 

 

普段楽譜はたくさん書いていますが、コラムを書くことは人生で初めてです。初回ということで、今回は自分の事について少しでも知って頂けたらと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

チェロを弾くようになるまで

 

 

僕の父は作曲家、母はピアノの先生をやっています。そのせいもあり3歳からピアノをやらされていました(汗)。しかしイヤイヤやらされていたため伸びず、続かず・・・それでも何か音楽をやらせたかった両親は次に僕にヴァイオリンをやらせようとしたのですが、首に挟めず・・・。音も鳴らず・・・。体験レッスンの段階で断念。

 

そんなこんながしばらく続き、7歳の時のこと、父の趣味でもあるJAZZを聴いて、ロン・カーターのベースに惹かれました。

 

しかし、恥ずかしながら当時「チェロ」と「コントラバス」の見分けがつかなかった僕は「これやりたい!」と家に偶然あったヨーヨー・マのCDを見つけて、両親に差し出したのをきっかけに、今に至ります。

 

とんだ勘違いで選んでしまった楽器なのですが、今ではチェロの持つ音色、圧倒的な高いポテンシャルに魅了され大好きな楽器、最高のパートナーとして日々を過ごしています。

 

アレンジのきっかけと仲間たち

 

僕はチェロの演奏の他、アレンジャーとしても活動しています。自分の性格「無い物は作る」という精神が理由でもあるのですが、それについては次の項目で触れたいと思います。

 

アレンジのきっかけは、倉田澄子先生の夏期合宿。高校1年生の時、合宿の出し物でチェロ・アンサンブルを自分の学年でやろうと企画していたのですが、従来のありきたりなプログラムではなく「出し物」として面白い、新しいものを作りたかったのです。

 

そのために、今までにおそらく誰もやったことのないであろう曲「ラプソディ・イン・ブルー」をやってみたら面白いのではないだろうか?ということになり、勢いで書いてみたのがきっかけでした。

 

そして、夏の噂が先輩たちの耳に届き、その年の冬「桐朋学園チェロアンサンブル」にて、「試しに今年のアンコールを作ってみよう」から、桐朋チェロアンサンブルでのアレンジャーとしての活動が始まりました。

 

桐朋チェロアンサンブルでは、7年間アレンジャーを務めさせていただきましたが、今では当時チャンスをくれた大先輩方や同期のメンバーがプロ奏者として活動され、「東京チェロアンサンブル」や「日本チェロ協会」その他ジャンル、編成問わず様々なコンサートで僕の書いた譜面を使ってくださっています。

 

そんなきっかけやチャンスを与えてくれた桐朋チェロアンサンブルは、僕の人生にとってとても大切な存在です。桐朋チェロアンサンブルも、今年で卒業してしまったので、今ではこのコラムメンバーでもある大宮理人君含む桐朋チェロアンメンバー4人で『Paulownia Cello Quartet』を結成。まだまだ新しい楽曲をたくさん作っています。

 

欲しい物は自分の力で

 

幼少期からプラモデルや電子工作などの物作りが大好きでした。

 

音楽に関しては、感謝してもしきれない程に今でも支援をして頂いていますが、お小遣いや、欲しい物を正直あまり与えてもらえない家庭でした。

 

ねだる度に言われていたのが、

 

「したいこと、欲しい物は自分の力で得られるようになってからしなさい」。

 

両親としては、「努力して、しっかり働いて、稼いだお金で自分のしたいことをしなさい」という意味だったらしいのですが、そんなこんなのやりとりも中学生まで続き、この頃、どうしてもパソコンが欲しかったのです。

 

しかし高価な物なので買って貰えず、当然自分で稼いで買える物でもなかったため、「無い物は作る」精神がここで芽生えました。

 

若干話はそれますが、パソコンは買うとそこそこの値段がしますが、よほどこだわりが無ければ自作はとても低予算で作ることができます。その当時秋葉原のジャンク屋さんを駆けずり回りお小遣いの限界2万円でパソコンを作りました。

 

もちろん簡単なことではないので、このパソコンができるまでに相当な勉強をしていたのだと思います(夢中だったので楽しかったですが)。そして気が付いたらオタクになっているという結末(汗)。

 

しかしその時、パソコンの仕組みを一から学んだのが現在に生きています。

 

右の写真は現在の作業場なのですが、楽譜作成、音源編集など自分に用途に合うように自分で作った環境です(背景に写る物はプライベート♪)。そして「無い物は作る」精神は今では楽譜作りに反映されています。

 

「やりたいけど楽譜が無い!」という曲がまだまだ世の中にはたくさんあると思います。そんな時は、いつも自分で譜面を書いて演奏しています。

 

最近では演奏、アレンジ共にいろいろな方からリクエストを頂いています。チェロ・クァルテットのライブなど、いろいろな場でリクエストにお応えできるよう頑張りますので、これからもリクエスト、応援よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

Q:子どもの頃の夢は?

 

A:F1レーサになりたかったです。

近い将来の夢は「免許を取りたい!」です(笑)。

 

(2013.8.26)

小 林 幸 太 郎

Kotaro Kobayashi(Cello,Arrange)

Paulownia Cello Quartet

© 2014 by アッコルド出版