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インタヴュー

エニオ・ボロニーニ

門外不出の作品を引き継いだ理由


チェリスト クリスティーヌ・ワレフスカさん

チェリスト、クリスティーヌ・ワレフスカさんが36年振りに来日公演を行なったのは3年前のこと。

欧米ではロストロポーヴィチやシュタルケルらと並び称されるが、日本では1974年の来日公演以降、3年前までワレフスカさんの情報が伝えられることはなかった。
2007年、カリフォルニア州サンタバーバラの音楽祭で「クリスティーヌ・ワレフスカ チェロ・リサイタル」が行なわれ、それを偶然知った現在の「ワレフスカ来日演奏会実行委員会」代表 渡辺一騎さんが、彼女にコンサートを直接依頼したことが、日本ツアー実現のきっかけとなっている。(詳しくは
http://walevska.jp をご覧ください。)

ワレフスカさんは、1980年代からアルゼンチンのブエノスアイレスに居を構え、中南米を中心に演奏活動を行なっている。

久しぶりに訪れた日本の感想と、ワレフスカさんの師匠で、今回のプログラムにもその作品が入っているエニオ・ボロニーニにまつわるお話をうかがった。

通訳はワレフスカ来日演奏会実行委員会の渡辺一騎さん。

日本の聴衆 今と昔

ーー日本でのツアーも中盤にさしかかりました。



「私は日本が大好きです。日本の聴衆は音楽をよく理解してくださっています。これは、演奏家にとって、大変嬉しいことです。
若いころからヨーロッパ、北米、南米、様々なところでツアーを行ないましたが、例えばブエノスアイレスに初めて行ったとき、聴衆の皆さんが芸術のことをとてもよく理解していて、演奏の内容に見合う反応が返ってきて大変驚いた経験があります。


ブエノスアイレスは南半球の遠い場所ですが、ヨーロッパが冬の間には、大勢のアーティストが訪れて演奏活動をする都市だったのです。そして、ブエノスアイレスには一流のアーティストたちが演奏会を開くことのできるテアトロ・コロンという有名な劇場がありました。ですから彼の地の聴衆たちは様々な芸術に慣れ親しんでいて、クラシック音楽に対してもそのような反応が返ってきたのですね。


でも、1974年に初めて私が日本を訪れた時は今とは大分違っていました。聴衆の反応は、最初は拍手がまばらで、だんだんと大きくなるような状況。クラシック演奏会に慣れていないためか皆さんが周りを気にしながら拍手してくださっているように感じました。


私はそういった会場の空気を変えてみせよう!と思い、コンサートで演奏する曲の順番を替え、一番最初にジャン・フランセの『チェロとピアノのための幻想曲』を弾いたのです。


この作品は、技巧的にとても難しく、そして華やかさがありますので、コンサートでは後半に弾かれることが多いのです。そして通常なら、演奏後ほとんどの場合は拍手喝采となります(笑)。普通はこのようなプログラミングにすることはありませんが、それにもかかわらず日本の聴衆の反応は全く変わることがなく、がっかりした思い出がありました。


しかし、3年前に36年ぶりに来日した際の聴衆の反応は、見事に違っていました。かつての思い出のようなことは一切無く、日本の聴衆は今や芸術を本当によく理解している方ばかりです。演奏に対する反応も的確で、大勢のお客様が私の演奏を聴いて喜んでくださる様子を見ると私自身とても嬉しくなります。初来日から40年。日本の聴衆の進化には、本当に驚かされました。」





「7歳まで待ちなさい」



ーーチェロはどういった経緯で始められたのですか?



「私の父は楽器のディーラーでした。そして、弦楽器は何でも弾くことができたんです。ヴァイオリンからコントラバス、それからハープも弾きこなす器用な人でした。母はヴァイオリニストでした。父のお店にヴァイオリンを買いに来て知り合ったと聞いています。



私は子どもの頃、母にヴァイオリンを習いたい、といつも言っていました。すると母は、『7歳まで待ちなさい』と言ったのです。今は3歳くらいから習い始める人もいますけれどね。



そして、7歳になってやっとヴァイオリンを習わせてもらったのですが、どうも高音が気になり、合わなかったのですね。ところが、父が弾くチェロはとても心地の良い音に感じ、チェロを弾きたい、と思ったのです。すると父は、フランス製の素晴らしいチェロを買ってきてくれて、私はチェロをすぐに好きになりました。8分の1の分数楽器でした。」



ーー最初はお父様に手ほどきを?



「そうです。私が始めてきちんと教育を受けたのはパリ国立高等音楽院で、モーリス・マレシャルに師事してからです。


その頃、パリ国立高等音楽院にはマレシャルの他にもポール・トルトゥリエ、アンドレ・ナヴァラといった、それは著名な先生がいらして、本当に素晴らしい学校でした。ですから、当時私は、ある程度の年齢に達したら、パリで後進の指導にあたりたいと思っていました。しかし、今のパリ国立高等音楽院にそういう魅力は感じません。パリ国立高等音楽院はラヴェルやドビュッシーらが通った歴史的価値のある貴重な校舎を捨てて郊外に移転してしまいました。正直なところパリという街自体にもかつてのような魅力をあまり感じなくなってしまいました。大変残念なことです。


今私は、京都に住むことができたら、と思っています。3年前の来日時に、レーヌ・フラショー(チェリスト)のCDを聴きました。フラショーは晩年に毎年のように日本に来て教えていたという話を聞いて、私も彼女のようなことができたら、と思いました。


今回、福井での演奏会を取り仕切ってくださった方が3年前に京都旅行をアレンジしてくださったのですが、そのことは今でも忘れられません。ここ十数年来で一番楽しかった思い出です。できることなら、大好きになった京都に数年後には住みたい、そして日本で教えることができたらこんなに素敵なことはない、と思うのです。」

師匠 ボロニーニの想い出



ーー今回のツアーでは、ボロニーニの作品がプログラムに入っていますね。

パリ国立高等音楽院に留学するまで師事されていたそうですが、どのような先生だったのですか?



「私は、8歳半のときにボロニーニに習い始めました。ボロニーニは大変背の高い人で、手も大きく野球のグローブのような手でした。私は彼の手のレントゲン写真を見たことがあるのですが、指もとても長かった。もちろん、チェロの音色も世界一でした。


ボロニーニは、特別な教則本を使って教えるというわけではなかったのですが、彼の弾き方は常に完璧でしたから、それが非常に勉強になりました。例えば、ボウイングは常に八の字を書く。それがどんな場合でも一定でした。
ヴィブラートは一秒間に7回。それがいつも変わらず一定。どんな音楽でも、最高に、最適に弾く能力がありました。


彼のお父さんもチェリストでしたし、彼の先生はホセ・ガルシアというパブロ・カザルスも師事した先生でした。そして、ボロニーニの2人のお兄さんはヴァイオリン奏者でもありした。」

チェリストであり、

ボクサーでレーサーという奇才



ーーボロニーニの名付け親はトスカニーニだそうですね。(ボロニーニの父はトスカニーニと交友があった)

「そうです。本名はエンニョ・ボロニーニなのですが、トスカニーニはいつも『ヘンニョ・ボロニーニ』と呼んでいました。『ヘンニョ』とはロシア語で天才という意味です。


トスカニーニが指揮するオーケストラで、ボロニーニがチェロの首席を任された時、彼はチェロを背中に担いでバイクに犬のリードをくくりつけてやってきて、なんとバイクに乗ったまま会場の中まで入ってきたそうです。そして犬をステージまで連れて行きリードを椅子の脚にかけて、それで練習していたそうです(笑)。かなり破天荒な人でした。


ボロニーニは、アメリカではシカゴ交響楽団の首席奏者になりましたが、ある日、サン=サーンスの『動物の謝肉祭』の練習のときに彼が姿を現わさなくて『ボロニーニはどこだ?』ということになったそうです。彼が見つからないまま練習が始まり、そして演奏が『白鳥』にさしかかると客席の上の方から白鳥のメロディーが聴こえてきたそうです。そうです、ボロニーニの仕業でした。それはそれは素晴らしい演奏だったそうですが、残念ながらシカゴ響の人たちには、そんなジョークは理解できなかったようです。


その後、大指揮者のアレクサンドル・グラズノフがシカゴ響に来た際、いよいよ本番というときになって緊張のあまりグラズノフが舞台に出られなくなってしまったことがあったそうです。ロシア語を話せたボロニーニは、そのとき通訳のような役割をしていたこともあり、グラズノフのところへ行き手を引いて彼を舞台に導いたそうです。ところが、そのことが後になって『あれはショーだったのではないか?』と楽団員から反感を買うはめになったのです。指揮者よりも目立ったのではないかと楽団員たちは彼を非難しました。ボロニーニはそのことに大変腹を立て、その場でシカゴ響を辞めてしまいました。


数日後、アメリカで最も歴史ある野外音楽祭として知られるラビニア音楽祭にシカゴ響が出演した際、ボロニーニは自ら小型飛行機を操縦して会場上空をブンブン飛び回り演奏会を台無しにしてしまったそうです。その後会場近くに着陸したそうなのですが、ボロニーニを制止するのに20人ほどの警官が必要だったというエピソードも残しています(笑)。とにかくそういうわけで、ボロニーニのシカゴ響でのキャリアはわずか1年余りでした。


しかし、彼は間違いなく世界で最高のチェリストでした。そして、性格も素晴らしく、背が高くハンサムだったので、恋人も、もちろんファンもたくさんいる、本当に魅力に溢れたアーティストでした。でも何故、ピアティゴルスキー やフォイヤマンのように、たくさん演奏会をして、たくさん録音を残すとか、その輝かしい足跡を残さなかったかというと、彼はいつも森の中で生活をしていたからなんです。あくせく仕事をするよりも、生きることを心から楽しむことに重点をおいていたんです。



私は昨年の夏、スイスのルガーノの湖畔でコンサートをしたのですが、その時の会場は全面が硝子張りでした。大変素晴らしい会場だったのですが、夏だったのであまりにも暑くて、汗を流しながらリハーサルをしていました。



湖を見ながらチェロを弾いていたとき、ふと、もしここにボロニーニが居たら、彼は絶対に硝子で閉め切られた会場では弾かず、湖でボートに乗って『クリスティン何やっているんだ、こっちにおいでよ!』と言うに違いない、と思いました。彼はそのような生活をおくっていたんです。


多才でたくさんのことに挑戦していましたから、彼は夜は2時間しか眠りませんでした。素晴らしいボクサーであり、レーシングカーのドライバーであり、飛行機のパイロットであり、そしてまた医学も勉強していました。扁桃腺の手術を自分で行ない、恋人の扁桃腺を切除したこともありました。本当に何でもできる多才な人でした。」

ギターのようなピッツィカート



ーーボロニーニが残した門外不出の楽譜を受け継がれているそうですが。

「彼は7、8曲の小品を残しているのですが、それらは全部ご自身のために書いた作品でした。コンサートで『自分はこんなに巧いんだぞ!』ということを示すために作曲したのです。ですから、彼以外が弾くのは本当に難しい作品なんです。



彼はブエノスアイレスで、アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアニスト)と、アンドレス・セゴビア(ギタリスト)と相部屋になったことがあり、そこでボロニーニはギターの弾き方を習ってるんですね。

ボロニーニの作品の中には、とても難しいピッツィカートが出てきます。ギターは弦と指板とが近く、はじきやすいのですが、チェロは駒が高くて弦が離れていますので、ギターのようなピッツィカートを実現させることは、本当に大変で、力が要る作業です。それができるようになるには、小さな頃から特別な練習をしていないと不可能だと思います。ですからボロニーニは、子供の頃から彼に学んでいた私以外には弾かせたくない、と思っていたようです。



今回のツアーでは、ボロニーニが作曲した『チェロの祈り』と『バスクの祭り』をプログラムに加えましたので、ぜひ聴いていただきたいと思います。」

取材/向後

〈東京〉
日時:4月5日(金)
​会場:紀尾井ホール 19:00開演(18:30開場)
出演:クリスティーヌ・ワレフスカ(チェロ)
   福原彰美(ピアノ)
曲目:(予定)
   バッハ/シロティ編曲:アダージョ
   ブラームス/チェロソナタ 第2番 へ長調 Op.99
   シューマン/アダージョとアレグロ Op.70
   フォーレ/エレジー
   ボロニーニチェロの祈り、バスクの祭り、他
   フランクソナタ イ長調
チケット:全席自由 6500円、学生 3500円(先着100名)​
チケット取扱い:日墺文化協会 電話:03-3271-3966・    Email: j-austria@mx2.ttcn.ne.jp
​お問合せ:ワレフスカを聞く会(渡辺)
   電話: 090-3069-6553・専用FAX:03-3872-4654


〈福岡〉4月    7日(日)14:00福岡銀行大ホール

〈兵庫〉4月11日(木)19:00兵庫県神戸市立灘区民ホール 
〈京都〉4月13日(土)17:30青山音楽記念館バロックザール

〈東京〉4月16日(火)19:30六本木 STB139
〈秋田〉4月18日(木)14:00アトリオン音楽ホール
〈宮城〉4月22日(月)19:00仙台市青年文化センター

クリスティーヌ・ワレフスカ(チェロ)

福原彰美(ピアノ)
2010年に行なわれたリサイタルの模様



上・J.S.バッハ/アリオーソ
下・ピアソラ/アディオス・ノニーノ

 (編曲 ホセ・ブラガート)

© 2014 by アッコルド出版

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