インタヴュー
◆オライオンQは学生が結成した団体ではない
――オライオンQは結成からメンバーが替わっていませんね。
フィリップス:ごく初期にひとり変わっています。それ以外は20年同じです。
――昨今ではとても稀な例ですね。今や、オライオンQはNYではいちばんの長老格なんでしょうかね。エマーソンQの方が長いかしら。
フィリップス:彼らは50代後半から60代じゃないですかね。
私たちのチェリストはそれよりも上。私とスティーブンは50代後半。
トッドは、ええと、51歳かな。平均年齢では私たちの方が上かもしれないな。エマーソンQは私が学生の頃から始めていました。最もオリジナルのエマーソンQとはヴァイオリンは同じだけど、他のふたりは違うしね。
――どうして弦楽四重奏団をご兄弟で結成なされたのですか。
フィリップス:良い質問ですね。なにしろ私たち4人は全員が、最初に団体をつくったときにもう既にそれなりの良いキャリアを積んでいましたから。私の兄弟のトッドはオルフェウス室内管やアマデウス・チェンバー・ミュージックをNYCで始めていましたし、私はマネージャーと契約して、ヤング・コンサート・アーティスト(注:ニューヨークでキャリアを始めた演奏家をオーディションで契約し、プロとしての基本的なコンサート活動の準備をする非営利団体、今井信子やリチャート・ストルツマン、東京Qなども最初はここに所属した)を終えて独奏者としてのキャリアを始めていました。ティモシー・エディは室内楽奏者として確固たる地位があって、もうあの頃から教師としてのポジションも得ていました。スティーヴン・テネンボムはあちこちでいろいろな人と共演していた。どうしてかという質問に対する答えは、お金のためではなかった、ということは確かです。
――そうでしょうねえ、お金のためだったら弦楽四重奏だけはやらない。
フィリップス:そのとおり、お金のためなら他のことをしていた方がいい(笑)。さて、私たち兄弟はペンシルヴァニア州ピッツバーグの音楽一家に育ちました。母はピアニストで、父はピッツバーグ響で弾くヴァイオリニストでした。ですが父が最も関心があったのは、弦楽四重奏でした。フィリップス弦楽四重奏団を組織していました。3年前まで活動をしていましたよ、父は90歳になるんですけど。家で大晦日に室内楽の楽譜のリーディングを行なっていました、私と弟も参加していました。
――洗練されたご家庭ですねぇ。
フィリップス:私が12歳の時、ドヴォルザークのピアノ五重奏曲を一緒に弾きました。14歳の時には、室内楽好きのピッツバーグ響メンバー2人を加え、父の隣で第2ヴァイオリンでフィリップス弦楽四重奏団で弾くようになりました。数年後には弟がフィリップスQで私の席を得ています。ですから、私たちは若くして弦楽四重奏演奏に触れ、達成できる最高のものであると知ったのです。ソリストであるよりも高い成果であると信じました。ソリストも良いんですよ、派手ですし、有名になれますしね。でも、弦楽四重奏は弦楽器のための偉大な音楽です。音楽的にもより多くのチャレンジを与えてくれます。それで私と弟は室内楽の世界に関わるようになりました。師匠のイヴァン・ガラミアンがおりましたので、12歳からは有名なメドル・マウント・サマーキャンプに参加しましたけど、そこでも私も弟も室内楽ばかりをやろうとしていましたね。一緒にいた他の生徒は、みなガラミアンの生徒です。19歳のピンカス・ズッカーマンとか。まあ、良い場所にいたと思いますよ(笑)。
――じゃあ、矢島廣子さんと同じくらいですか。
フィリップス:彼女は私よりちょっと上、ピンカスなどの世代ですね。ガラミアンに学んだのは同じ頃ですが、私はそのひとつ下の世代。ガラミアンに学んだときの話をしましょう。土曜日にピッツバーグからNYCまでガラミアンに習いに行くのです。14歳だったかな、まるでビジネスマンのように毎週NYまでひとりで飛行機で来てたんですからねぇ。そのころ、若い中国系のチェリストで、まだ誰も知らない奴とトリオをやっていた。ヨーヨー・マという名前でしたが(笑)。私が14歳で彼が13歳でした。とても楽しかったですよ。ジュリアード音楽院のプリカレッジは、あっちこっちから来ているいろんな奴に会えました。それで、4年の間、毎週土曜日には、ピッツバーグからの1時間のフライトでNYまで来て、昼間の間中滞在し、戻っていた。ホントにビジネスマンみたいでした。その頃は今と違って、フライトの30分前に空港に着けば良かったですからね、セキュリティなんてなかったから。それほど苦労は感じませんでした。
――へぇ。
フィリップス:それから、ジュリアードのカレッジに行きました。その間にヤング・コンサート・アーティストに独奏者として合格し、独奏者としてのキャリアが始まったのです。でも、私はずっと自分の弦楽四重奏団を持ちたいと思っていました。やがて弟が一緒にやるに十分な歳になった。私たちはイングランドのコンウォールの国際音楽セミナーに行きました。その頃に私が偉大なシャンドール・ヴェーグに出会ったからです。
◆シャンドール・ヴェーグにヨーロッパを学ぶ
――そこでヴェーグさんがあなたの経歴書に登場するのですね。
フィリップス:いや、出会ったのはマールボロ音楽祭です。誰もがそうであるように、あそこで出会った人々により、私の音楽は変化しました。はじめて行ったときの第2週に、私はシャンドール・ヴェーグと一緒に弾くグループになり、バルトークの6番をやることになりました。彼は個人的にバルトークを知っており、多くを学ばせていただきました。
――ヴェーグさんが第1ヴァイオリンだったんですか。
フィリップス:ええ、でもこの頃のマールボロでは、全員が第2ヴァイオリンも弾かねばならないことになっていて、彼は自分がよく知らないパートも弾いてましたが(笑)。私のグループではヴィオラはキム・カシュカシアンで、メトロポリタン歌劇場の首席になるジェリー・グロスがチェロでした。私たちは皆20歳そこそこでした。それが私が偉大なヨーロッパの演奏伝統に触れる最初の機会でした。ヴェーグがバルトークのディヴェルティメントを指揮したとき、マールボロにはピーナ・カルミレッリとかいましたが、そんな人たちが後ろに座って、私がコンマスに座らせてもらいました。特別な関係を持てたのです。で、同じことをヴェーグがイングランドのコーンウォールで始めた。
――学生はヨーロッパ人。
フィリップス:ええ、マールボロよりも国際的でしたね。私がそこに行き、弟も来るようになったわけです。弟はそこでヴェーグに会い、彼に学ぶためにザルツブルク・モーツァルテウムに行くことになるんですが。ヴェーグはとても反アメリカ的で、アメリカではヨーロッパの音楽の感じ方は伝わらないと公言していた。でもなぜか、私と弟は別だと仰ってくれた。彼が教えねばならぬことがどういうわけか私たちには伝わる、って。
――ヨーロッパではどういう方々が同期だったんでしょうか。
フィリップス:コーンウォールでスティーヴン・イッサーリスやヴィーン六重奏団のエリック・フーバート(注:モザイクQ第1ヴァイオリン)と知り合ってます。フルトヴェングラーの下で第1チェリストとして弾いていたティーヴォ・デマキュラ、とてもお年寄りでしたけど、彼とは弾いてみたかった。それから、アンドラーシュ・シフもいて、随分やりましたね。
――そういう世代なんですね。
フィリップス:ですから長い間、私と弟はそれらのヨーロッパの音楽仲間と近しい感じがあったのです。弦楽四重奏団を結成してからも私たちはコーンウォールに行き、ジョルジュ・クルタークにも学んでいる。ヴェーグは私たちのチェリストのティモシー・エディはカザルスを思い出されると言ってくれましたよ。確かにティモシーはカザルスにも学んでます。そんなわけで、私たちの団体は、そんなヨーロッパの最も偉大な伝統に触れています。ジュリアード音楽院のような速く、大きな音で、豪奢に演奏するというのよりも、偉大なヨーロッパの音楽教育の方に近いでしょう。
――オライオンQはジュリアードとかラサールQとかに学ぶ、という団体ではない。
フィリップス:違います。私たちは若い音楽家が集まって結成した団体ではありません。もう自分らの音楽人生がありました。私の弟が一番若く、20代初め。ティモシー・エディはもう中年で、私らの誰よりも年長でしたし。ティモシー・エディとテネボムはフェリックス・ガリミアと弦楽四重奏を弾いていましたし。ガリミアも、ヨーロッパを追い出された方です。彼はマールボロでもジュリアードでも重要人物でした。彼らはそこでも、ヨーロッパの演奏伝統の中で弾いていたわけです。ですから、私たちの弦楽四重奏はそんなヨーロッパのゴーストを背負っている、それらが私たちを導いてくれているのです(笑)。それらを感じています。ティモシーはカザルスやグリーンハウスなど、私はヴェーグ。ヴェーグは、私たちは大西洋の真ん中(Middle Atrantic)な響きがする、って仰いました(笑)。つまり、ヨーロッパの伝統と、アメリカの楽器を扱う能力とがある、ということ。
――どれも日本の聴衆にはとても親しみがある名前ですよ。
◆ヴァイオリンの交代について
――フィリップスさんと弟さんがヴァイオリンを交代しますね。このようなやり方を始めた最初の団体のひとつだと思うのですが、どういう理由からなんですか。
フィリップス:イングランドで私たちがシャンドール・ヴェーグのところで勉強していた頃、私たちはもう一緒に弾いていました。一緒に楽譜の勉強もしていた。それで交代するようになったのです。これはうまくいくと思うようになりました。というのも、私たちは二人とも第2ヴァイオリンを弾くのが達者でしたから。低い音を担当し、うまくアンサンブルに入っていくのは難しい仕事です。ときに、第1ヴァイオリンしか弾けない音楽家もいますけど…例えば、彼も同意してくれると思うのですけど、シャンドール・ヴェーグ先生はとても酷い第2ヴァイオリン奏者でしたよ(笑)。なにしろ彼は常に音楽全体をコントロールしていたかった人ですから。一度、彼が第2ヴァイオリンに座ったことがありますが、正直、うまくいかなかったですね。第2ヴァイオリンに座るとは、音楽の一部になりつつ、チャンスがあれば引っ張ることもしなければならない。私たち二人は共にそれが上手で、共にリーダーにもなれた。だからこれでやっていこうと決めたわけです。
――どの曲をどちらが第1ヴァイオリンになるか、どうやって決めているのですか。
フィリップス:それほど面倒なことではないのです。自分がどちらかをやりたいとはっきり思っている曲であることもありますし。
――古典はどちら、モダンはどちら、みたな役割分担ではない。
フィリップス:例えばベートーヴェンでも、私たちは曲を分担しています。バルトークも半分に分ける。でも、弟はモーツァルトがとても達者なので、彼が第1ヴァイオリンを担当することが多い。私はドヴォルザークへの愛着があるので、第1ヴァイオリンを担当します。まあ、殆どの場合はプログラムを眺め、うまい具合にバランスが取れるようにしています。東京でのベートーヴェン作品135では私がファースト、後半では弟です。共演の場合はいろいろで、シューマンの五重奏は私がファーストに座ります。ピアニストの関本さんを私は良く知ってますから。
◆マルサリスの弦楽四重奏曲について
――日本ではCDが出ていないとなかなか知名度が上がらないのですが、皆さんのCDで日本で公式にリリースされたのはウィントン・マルサリスの弦楽四重奏曲だけなんですよ。それで、団体として誤解されてしまったところもあるかも。
フィリップス:CDに関して言えば、私たちは些かまずい時期に行きあたったのでしょう。直前にエマーソンQがドイツグラモフォンと契約し、その前にはRCAとクリーブランドQが契約していた。ですから、レコード会社との契約がなかったんです。
――その後はレコード会社がもう弦楽四重奏団との契約などしなくなってしまいましたからね。
フィリップス:そう。ソニーとの話があったのですけど。
――それでマルサリスの録音になったわけですね。オライオンQがあのような形で出てきて、かなりビックリしました。
フィリップス:私たちはリンカーンセンター室内楽ソサエティ(CMS)で共にレジデンシィでした。CMSからマルサリスに新作が委嘱されたんです。ストラヴィンスキーなどの曲と一緒の演奏会でやる作品でした。打楽器奏者もいましたし、どんな可能性もあったのだです。でも、マルサリスは弦楽四重奏を書くと言い出し、みんなビックリしたんですよ(笑)。彼はジュリアード音楽院でクラシックのトランペット奏者として学んでいたときに、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏についての論文も書いています。バルトークの弦楽四重奏にも関心があった。で、ああいう作品を書いたんですね。最初の譜読みのときには、中年の白人男たちが、若いアフリカ系の青年から説明を受けることになったわけです。彼はジャズ歌手のアレサ・フランクリンなどを聴かせて、理解させようとしてくれました。それから自分の作品もあれこれ見せてくれた。クァルテットの楽譜は作品は立派なもので、ある楽章はバルトークの弦楽四重奏みたいに響く。デューク・エリントンみたいなところの他はバルトークのようによく書かれていて、マルサリスの持っているものをきちんと伝えている作品になったと思います。
◆アメリカ風の室内楽はあるのか
――皆さんはNYのマネス音楽院で弦楽四重奏を教えてらっしゃるわけですね。
フィリップス:ええ。グリーンハウス、ヴェーグ、ガリミア、カザルス、シュナイダー、そんな偉大な音楽家と私たちは近しく音楽をしてきました。そこからもらったものが私たちの中にはたくさんありますから。
――そんな「伝統」と言われるようなものは、学校で教えることが出来ると思いますか。
フィリップス:伝統という考えは、未だに全人類で共通のものだと思います。偉大な音楽言語、その裏に何があるか、それらは人類共通です。時代がどうであれ、文化がどうであれ。ですから、それらが何を意味するかを学ぶことは出来ます。シャンドール・ヴェーグは私たちにハンガリー風というものを教えてくれました。最初はうまくいかないで、何度も何度も「そうじゃない」と怒鳴られましたよ。でもやがて身につけることが出来た。外国語を学ぶようなものです。最初は妙なアクセントでも、やがてちゃんと発音出来るようになる。バルトークをアクセントなしで弾くことも出来てしまいますよ。でもフレージングの考え方とか、真面目な音楽の表現の仕方とは何かとか、作曲家が書いたことで何を意味しているかとか、そのようなことは次世代に伝えていくことが可能だと思いますし、これまでずっと伝えられてきたわけですし。
――では、アメリカ風の弦楽四重奏演奏というのはあるのですか。日本の室内楽聴衆は、ヨーロッパ風の室内楽スタイル、というのがとても好きなんですよ。それが何なのか、正直、私にはいつもよく分からないんですけど。
フィリップス:今はどうなんでしょうねぇ。私が若い頃には、明らかにありました。前述の巨匠たちと演奏していて、ある種の暖かさ、美しい表現法、想像力などヨーロッパの伝統が伝わってきたものです。おそらくステレオタイプなアメリカの弦楽奏法は、もっと大きな音を、とかいうものですね。ですが、私の先生のガラミアンはアルメニア人で、パリ音楽院で勉強した。ルシアン・カペー、偉大なフランスの教師に学んでいる。私が室内楽を学んだフェリックス・ガリミアは、シェーンベルクやベルクと共に生き、NBC響で弾いていた。ですから、何らかの違いはあると言えるとは思います。最近では、アメリカの教師はよりヨーロッパ的になっている。例えば最近では若いヴァイオリニストはみんなワイラーシュタインのところで学びますね。彼は偉大なクリーヴランドQの第1ヴァイオリン奏者で、とてもヨーロッパ的です。ですがヨーロッパでは、どの若い奏者もギドン・クレーメルやツェトマイアーなどの奇妙なコンセプトに影響されている。ときに意識的に汚い音を出したり。アルノンクールなどもこのような傾向を後押ししているのでしょう。新たなヨーロッパ流というのは、奇妙でなければならない。
――はあ(笑)。
フィリップス:いや、本気で言っているんですよ。ヨーロッパで成功するために、ヨーロッパの奏者たちは奇妙でなければならないんです。で、若いアメリカ人は、年寄りのヨーロッパ人のように演奏する。どういうことか判りませんけど、今は些か混乱していますね。アジアの国々では、立派な先生は偉大なヨーロッパの伝統で学んでいますね。以前はアジアの国から来る生徒たちはそのようなことを理解しなかったんだけど、今はそんな違いはなくなっていますし。
――皆さんの団体にキャッチフレーズを作るとすれば、最もヨーロッパ的なアメリカの弦楽四重奏団、ってことでしょうかね。
フィリップス:先程も言いましたけど、ヴェーグをまねれば、私たちはどこか大西洋の真ん中、ってことです。私たちはヨーロッパで訓練され、ヨーロッパの価値観をとても近しく感じています。少なくともアメリカ風な成功そのものを目的とするようなあり方には強く反対しています。
――最後に、どうして日本には来たことがなかったんですか。アジア圏は。
フィリップス:かつて1週間台湾のツアーをして、それから韓国に立ち寄ったことはあります。演奏し、教えました。日本に行かなかったのはたまたまです。別にアジアが嫌いなわけじゃなく(笑)、実際、他のメンバーは別のグループで日本にも何度も訪れてますし。
――ありがとうございました。
カーシュバウム事務所で、ダニエル・フィリップスをインタヴュー。
11月18日にニューヨークで開催されたベートーヴェン弦楽四重奏マラソンに参加し作品135を弾いて大喝采のオライオンQです。ここではダニエルさんが第1ヴァイオリン。
ダニエル・フィリップス大いに語る
インタヴュアー 音楽ジャーナリスト 渡辺 和
( 2012年6月27日ニューヨーク、カーシュバウム音楽事務所オフィスにて)
☆こちらも併せてお読みください☆
電網庵からの眺望
第2回~オライオンQについて
◎オライオン弦楽四重奏団
・ダニエル・フィリップス Vn
・トッド・フィリップス Vn
・スティーブン・テネンボム Va
・ティモシー・エディ Vc
1987年結成。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全集をKOCHに録音。年間50公演以上の演奏活動。パブロ・カザルス、ルドルフ・ゼルキン、アイザック・スターンや、ピンカス・ズッカーマン、ピーター・ゼルキン等と共演している。
2011-2012シーズンは、室内楽ノースウェスト、『Music@Menl』音楽祭、サンタ・フェ室内楽音楽祭に始まり、リンカーン・センターでの秋・春公演、ワシントンD.C.ケネディセンター、ボストン・セレブリティ・シリーズ、フィラデルフィア及びピッツバーグの室内楽ソシエティ、ロンドン・キングスプレイス等に出演。
現在、リンカーン・センター室内楽ソシエティのアーティストメンバー及びNYマネス音楽院のカルテット・イン・レジデンスも務めるほか、若手弦楽四重奏団育成のためのプログラムなどを積極的に展開している。個々のメンバーはソロや室内楽でも活躍している。