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1965年10月30日 広島県府中市に生まれる 中学2年生の夏、自分の感性とあう音楽に出会う。 16才の時に友人からアコースティックギターを譲り受け、翌年 学園祭にて歌で自己表現する喜びを知る。東海大学に進学後、音楽サークルでバンドを組み、青木和義と出会うきっかけになるライブハウスでアルバイトを始める。

1987年青木和義とT-BOLANの前身となるバンド“プリズナー”を結成。本格的にプロを目指す。同年11月22日、Being主催の第2回BADオーディション(目黒ライブステーションで開催)でグランプリを受賞。1988年7月22日“BOLAN”としてインディーズレーベル『YEAH』からインディーズデビュー。ライブ活動を年間100本以上行なう。

 

その後、メンバーとの音楽性の相違により“BOLAN”を脱退し、新たなバンドを複数掛け持ちするなどして音楽活動を続け、その過程で五味孝氏、上野博文と出会う。1990年再び、青木と組む道を選び、他のバンドで活動していた五味と上野を迎え入れ、“T-BOLAN”を結成する。

 

以降、15枚のシングル10枚のアルバムをリリースし、シングル、アルバムの総売上は1700万枚。1999年12月、ベストアルバム「FINAL BEST GREATEST SONGS & MORE」、VHS「FINAL BEST LIVE HEAVEN~LIVE&CLIPS~」をリリース、自伝エッセイ「泥だらけのエピローグ」を発売、12月をもって解散。以降、音楽活動を休止。 

2009年11月18日オフィシャルHPにて音楽活動再開を発表。11月26日には神戸ワールド記念ホールで行われた「ベストヒット歌謡祭2009」にて復活のステージに立ち、12月25日にはCCレモンホールにて「SECOND BIRTH Christmas Fan meeting #00 絆」無料招待で集まったFANの前で復活のステージを行なう。

 

http://www.moritomo-arashi.jp/pc/index.asp

普通に生活の中からメロディーが

 

──ご自身のメロディラインは、かなり過酷なフレーズのような気がしますが、そのあたりは、決して妥協されない?

「何も考えていないです(笑)。感情だけなんです。僕には、歌の入り口というものがあって、ワン・コーラスが僕の中でのまずひとかたまりなんですが、一本の糸みたいなものです。一本糸があるとすると、それが紡ぎ出てきて、メロディが始まると、そのメロディが泳ぐまま、ずっと行くわけです。

それがどこかで違うところへ行ってしまうと、止まってしまう。途中からやり直しというのがあまりできなくて、また頭から流れていく、それが、最後まで行き切ったときに、ワン・コーラスができてしまう。ちょっとした本当に感覚だけなんですよ。その作り方は、ずーっと昔から変わらないです。」

──天性のものなんですね。

「天性というか、ヴォーカリストならでは、のものだと思いますよ。ヴォーカリストは、和音を鳴らさなくても、歌だけで行けてしまう。楽器を持たなくてもメロディーは出てくる。本当にふっとメロディーが降りてくる瞬間があって、それをすぐ録音する。言葉もそうです。いつもペンだけは持っていて、ふっと浮かんだら紙切れ破って、メモってポケットに入れておく。」

──感情として、漠然としたものはあっても、それを形にするのは、一般的にはとても大変な作業のような気がします。

「うーん、なんかね。僕の場合は、あまりゴールが見えていないんですよ。できはじめる時に、あ、なんか出てきそう、というのがあって。勿論、作ろうと思って作るときもあります。だけど、いくらやってもピントが合わないときは、とりとめがなくて、でも何時間か経ったときに、ふっと、キラッとするメロディの入り口が聞こえるときに、来たー! という感じなんです。その時に、その流れをちゃんと大事に集中して綺麗に出し切ってあげる、そんな感じなんですよ。」

──潜在能力の中から出してあげるということでしょうか。

「そんな高尚なことではなくて、例えば、基本にあるのは、小学校の頃に唱歌で歌った歌だったりとか、テレビから聞こえてきた歌謡曲だったり、そんなものなんですよ。僕はクラシックも勉強していないし、音楽のことを勉強したわけじゃないんですよ。普通に生活の中に聞こえてくるメロディーが、僕の中の感性で昇華されるのだと思う。

例えば、切ない感じ、夕日を見ながら、イエー、とは出てこないでしょう。極端に言えばそういうことです。元気のいい子供達が遊んでいる時だったら、ジャジャーン、イエーイ、という感じでやりたいし、夕暮れで空の色があかね色に染まっていて、本当に寡黙にものを思うような時だったら、そういうメロディーになっていく。

自然に自分が感じて、心地良いものが自分の中からメロディとして鼻歌のように出来るみたいな、というのが本当は一番凄いところですよね。作ろうと思うときは、自分をイメージの中に寄せていく。例えば、冬の真っ白い雪の中にいる状況をイメージするとか、今日は南の島に行ってみようとか。自分で意図的にイメージして、ちょっと毒っぽいものを入れてみようとか。はみ出したようなものを作ってみようとか。

あとコンサートでみんなで一緒に歌えるようなものを作ってみたい、と思えば、ライヴ会場をイメージするし、そういう自分のイメージの中で、そこからこぼれてくるメロディというよりは、僕の場合は歌、ですよね。歌を拾っていって、その歌の流れがどこかで途切れることがなく、ワン・コーラスずっと抜けきるまでを自分で丁寧に出しきっていく…そういう作業が僕の中での作曲活動なんです。そこにだいたい同じ時期に感じて思っていることが歌詞になって填まっていく。」

ファラセットを使うようになった

 

「面白いですよね。十数年休んでいたから、一気に曲が複雑になったというか(笑)、小難しくなっているというか。良くもあり、悪くもあるかな、と思っていて、もっとストレートな部分を出さなきゃなぁ、と思っているんです。

いいなぁと思うのは『もう迷わないでいて欲しい愛する事を』という曲にはファラセットがいっぱい出てくるんです。これが凄く気持ちよくて。でもこういうの、今まで作ったことないですよ。この曲も作ろうと思って作ってないです。

リビングで、アコースティックギターを弾いていたら、そのリラックスした感じが、ファラセットに行ったり来たりするようになって、なんだこれ、と思って録音して。そのフィーリングが凄くいい感じで、そのフィーリングを壊さないように歌詞を作るときに、音魂と言魂を自分の中に両方キャッチしながら、作っていく。過去の僕の作品と比べても、新しい感じですね。

──これまでの作品にファラセットを使う場面は。

「これほど使うのは、ほとんどないですね。部分的にサビの中で、一番最後に少し、というのは、ありますけど。全面にわたって使うのはないですよね。」

──ファラセットを使わなかったこれまでの作品、ある意味、過酷ではなかったでしょうか。

「全然。ファラセットを使いたいと思ったことなかったですね。たぶん、年齢も若かったし、エネルギッシュなものの方が、自分の中からきっと出やすかったのだろうと思う。例えば、二十代前半の頃に作った曲を、じゃあ今作れ、と言われても、ある種あまりにも真っ直ぐ過ぎて、今作ったら、メロディーも小恥ずかしいようなストレートさに感じてしまうだろうし、でも、その曲を今歌うと、そのメロディーさえも、また今の自分の表現力で少し変わっていきながらも歌いきれる。だけれどもそのメロディーを今作れるかと言ったら、今も歌えるけれども、今作れと言われてもなかなかそうはならないだろうな、と思う。

だからいつも自分の経験と、自分のライフ・スタイルと、自分が今感じている心のあり方、というものが、直接的に曲に反映される。チェロがそれぞれ皆違う音色がする、という話と同じように、時間軸で、自分が作るものも変化していける、それはすごく思いますよね。」

十数年に亘って、声を失った森友さんが、復活してからの活動を見ると、明らかにクラシックの世界に近づいている。
 
それは、彼自身におけるクロスオーヴァーなのではないかと私は想像する。
 
アッコルド青木日出男

森友嵐士 ロングインタヴュー 第

© 2014 by アッコルド出版

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