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Anne Le Bozec& Alain Meunier Interview

アラン・ムニエ&

アンヌ・ルボゼック

インタヴュー

アンサンブルは多神教徒

 
船越
ムニエさんは、以前インタヴューさせていただいた折、『室内楽』のレッスンでは演奏だけでなく、態度や考え方、取り組み方といった奥義も学ばなければならないとおっしゃっていましたね。
 
アラン・ムニエ(以下A・M)
音楽に対峙するときの態度というものは、どの曲を演奏する時もひとつであり、それは楽譜をどう忠実に表現するかです。
 
ただ室内楽のシチュエーションで、数人と一緒に演奏するとなると違ってきます。一人で弾くなら、問題となるのは音楽と自分自身です。しかし、数人で……となると、曲へのヴィジョンを共有しなければなりません。それぞれが自分自身の解釈を持っていますが、部分によっては自分の考えを脇に置き、他の人の考えを受けいれなければならないのです。
 
これは宗教の問題と似ています。自分の神だけが絶対的な存在で、他の神を信じる人々は間違っているとする『一神論』的な考えを持っては終わりです。音楽では『多神教徒』であるべきなのですね(笑)。他人を尊重し、また自分自身にも正直であること、この課題は、社会の一員としてどう幸せに生きるかということにもつながると思います。
 
また、編成の中に津波のように個性の強い演奏家がいて、他のメンバーがそれに飲み込まれ、引っ張られるということもあります。それはそれで素晴らしい出来になることもありますが、理想的とは決していえません。ここが微妙な部分です。
 
一人だけで全体を支配しても、豊かな音楽にはなりません。音楽はその全ての面に光が当たるときに豊かな姿を表すのであって、室内楽においては、一人で成し遂げるられることではないからです。それはパートナーだけでなく、楽譜も尊重していないことになります。
 
言うなれば指揮者にはそれが可能でしょう。でもそれは、彼がオーケストラから発せられる全てのエネルギーをまとめることができた時だけに成り立つのですから、結局は同じ問題です。オーケストラのエネルギーの流れを一方的に支配することなく、自然に自分の方へ引き寄せること、これが指揮者の芸術といえるでしょう。
 
『人』を尊重するだけでなく、『人の奏でる音楽』を尊重する、それが『室内楽』なのです。メンバー全員による楽譜の最大限の共有があってこそ、美しい高みに到達できます。その共有が生まれると、演奏しているのは自分ではなくなり、音楽に自然と導かれるのです。これは素晴らしい瞬間です。
 

東洋哲学からの影響

 
船越
お話を聞いているとオイゲン・ヘリゲルの『禅と弓』(ドイツ人の哲学者が日本滞在中に弓道の修行をし、雑念を払い無駄のない動作で放てば、矢は自然に的を射るという禅思想に目覚めていく過程をつづった作品)を思い出しましたが、この本をご存知ですか?
 
A・M
もちろん! この本からいろいろなことを学びました。例えばピチカートです。
 
私は弓術をしたことはないのですが、想像すると、弓を最大限に引いて矢を『放つ』その瞬間は、さらに余計な動作を加える必要はないと思うのですね。
 
ピチカートも同じです。多くの人がもぎ取るように弦をはじくのですが、私は弦の緊張が最大に達したと感じた時点で、ただ指を弦から放します。それだけです。美しく響く音を出すために弦がふさわしい状態に熟した、あとは放して音を自由にするだけ。弓道は、〈『今』と『今から』はひとつ〉という、時間の観念を明確に表していると思います。
 
アンヌ・ルボゼック(以下A・LB
『矢を放つ動作』と『的』は連結しています。『的を狙う』『的に当てる』という風に二段階に捉えることが、誤解なのだと思います。
 
音色の問題に置き換えてみましょう。よく生徒にこの話をするのですが、ひとつ効果的な『音』へのイメージがあります。
 
鍵盤は音を実際に生み出すところからはとても遠いのに、皆が鍵盤を必死に押さえつけています。そのせいで、音は自由にされることなく鍵盤の中で潰れてしまうのです。音を実際に弾いている場所、鍵盤から『空間へ解き放つ』とイメージすれば、その音は美しく伸びやかになり、すなわち『矢は放たれ的を射た』ことになります。音はもう演奏している自分の元を離れますが、一旦発せられた音を聴き、対話することによって次の音につなげることはできるのです。
 
A・M
ロストロポーヴィチも、緩楽章などで『音はここじゃない、ホールの奥だよ! ホールの奥から受け止めるんだ!』と言っていましたね。
 
音と共存することは、決してその音にしがみつくことではないのですよ。なぜなら、一旦自由になった音は、聴くことによってまた戻ってきます。そして次の音を産み、循環しながら継続していくのですから。
 
船越
日本文化の中に、西洋の音楽を演奏するための答えがあるということ、それをヨーロッパの方から指摘され、教えられるというのは興味深いことだといつも思います。
 
A・M
奇妙なことなのですが、レッスンで東洋思想を例に挙げ、『私はあなたたちの国の哲学や精神に影響を受けました』と話しても、アジアの生徒さんたちは何のことかわからず、当惑するのですよ……
 

フランスの伴奏科の軸とは

 
船越
ルボゼックさんは演奏活動と同時にパリ国立高等音楽院にて歌曲伴奏のクラスで後進の指導にも力を注いでいらっしゃいます。日本の音大では、まだこの『伴奏』という科目が一般的でないのですが、少し内容を解説いただけますか?
 
A・LB
フランスの伴奏科の軸となるものに、初見演奏、歌曲伴奏、この二つがあります。
 
初見演奏は日本でも有名なアンリエット・ピュイグ=ロジェに代表されるフランスの伝統的なもので、楽譜を最大限に速く理解し、自分のものにする能力、すなわち未知の楽譜から、曲の構成、声部の優先順序などを即座に把握し、それを弾くことができるというものです。初見演奏以外に、移調、オーケストラスコアや合唱スコアリーディング、通奏低音などが挙げられます。これらの能力を身に着けていれば、アクセスできるレパートリーは非常に幅広いものとなります。またこれは音楽史の深い知識に他なりません。
 
歌曲の伴奏は、楽器として一番対照的ともいえるピアノと声をひとつにし、どのようにピアノと声を一体に歌わせるかということです。 
 
私はこの二つの軸は必ず共存しなければならず、どちらが欠けてもならないと思っています。なぜなら、膨大な量の楽譜を読むということは、同時に細部まで注意が行き届かないということでもあるからです。一方、歌曲伴奏においては、細部にこだわった練習が欠かせません。
 
卓越した初見能力に恵まれた生徒は本当に多くなりました。彼らは、どれほど複雑な楽譜にも知らない曲にも怖気づいたりしないですし、経験も積み、勘にも秀でています。初見が得意に越したことはありませんが、これらの分野で進歩するためのテクニックは存在します。
 
しかし、一番重要なのは必ずしも初見の達人であることではなく、曲の構成を理解することなのです。
 
例えば移調。私にとっては、ただ音程を読んで、臨時記号を変えて、音を並べるというだけでは、音にミスがなかったとしても、意味があるとは思えません。
 
ある曲をどの調に移調して弾いたとしても、転調は同じように存在します。移調のときは、曲の構造上への理解がますます不可欠となります。転調の過程のハーモニーに何が起きているのか、言い換えれば、作曲家の視点を持ち、曲の仕組みがわかってこそ、移調演奏が可能なのです。このようなアプローチが、より音楽的な深みにそった賢い移調の練習だと思います
 
また移調は暗譜を確実にするためにも有効です。移調できれば曲を理解したということですから、よりよい演奏につながります。
 
オーケストラリーディングは、パートの優先順位を判断し、それによって演奏を整理することです。例えばシュトラウスのオペラをピアノ用に編曲した楽譜など、音が多すぎて真っ黒ですから、音を全部弾いたら大混乱で、何も聴こえてこないでしょう。これは指揮者の仕事と全く同じです。そして私たちはオーケストラと指揮者、両方の役割を負うわけです。 
 
この点は室内楽のレパートリーでも共通しますね。室内楽ではピアノの出番は大体継続していますが、だからといっていつも一番重要なパートを弾いているとは限りません。他のパートナーがテーマを弾いている時、それに対してどのようにバランスを取るか、どのように自分を位置づけするか、いつも聴くことが大切です。
 
船越
一方、歌曲伴奏の方は?
 
A・LB
歌手と共に呼吸し、聴きあい、言語を超えて詩の内容を理解し、歌からの影響をピアノにどのように生かすか……。
 
ヴォルフやシュトラウスなどを除いて、歌曲のピアノパートはピアニスティックな意味ではそう難しくありません。例えばシューベルトの『冬の旅』の伴奏は、初見できれいに弾ける人がきっと沢山いることと思います。なのに、どうしてこんなに難しいのでしょう? それはひとつひとつの音の裏には深い人間性、強いメッセージがひそんでいて、これは時間をかけなければ、到底理解できることではないからです。
 
速く楽譜を理解できる人、そしてゆっくりと時間をかけて掘り下げることもできる人、この両面を兼ね備えた人が、『完全な音楽家』に近づけるのではと思います。
 
船越
フランス語の歌曲は特有の難しさがあると思うのですが、日本人の生徒さんとはどのようなポイントを重視なさいますか?
 
A・LB
『話す』フランス語と『歌う』フランス語は、同じではありません。通常、声楽の方は発音の課題には精通しています。そこで、アクセントや勢い、流れ、方向性という面でのアドヴァイスの方が大切なのです。それこそ、詩の内容の表現に直接関与することだからです。
 
フランス語の歌曲を始めるときのレパートリーの選択として私がアドヴァイスしていることは、最初はヴェルレーヌの詩によるメロディは避けた方がよいということです。フォーレ、ドビュッシーなどの多くのメロディがヴェルレーヌの詩を題材にしていて、最も有名でまた最も美しい歌曲ですが、フランス語の経験の少ない生徒さんだと、何を歌っているのかわからない。
 
ヴェルレーヌの詩はたえず変容するのに、その移り変わりはあまりにも繊細です。振幅が多くてもいけないし、かといって静止しては音楽を殺してしまいます。フォーレやドビュッシーの音楽には、かすかにゆらめく様子が素晴らしく映し出されています。ヴェルレーヌの詩を表現するためには、フランス語の微妙な抑揚に精通している必要があるわけです。
 
船越
では、最初はどのような詩人のフランス語が、日本人にとってはなじみやすいでしょうか?
 
A・LB
ユーゴーは、明快で強く肉厚なフランス語です。またそれほど有名ではないですが、ラマルティーヌ、プリュドムなども。ボードレールもヴェルレーヌよりはやさしいと思います。
 

ジェラール・プーレ、ジャック・ルヴィエとのブラームスのトリオ集

 
船越
ムニエさんは音楽祭の企画などにも多く携わっていらっしゃり、またフランスには斬新な企画のものも多数ありますが、最近参加なさった音楽祭で特に印象深かったものはありますか?
 
A・M
これは私自身の企画ではないのですが、世界最高と言われるブルゴーニュワイン、ロマネ・コンティの産地で9月に開催された音楽祭『Les musicales de l’académie Conti』は素晴らしいものでした。ワインと掛け合わせた音楽祭はいろいろありますが、ロマネ・コンティはワインの『神話』ですからね! 私たち以外にジェラール・プーレ、ドミニク・メルレなども参加しました。 
 
18世紀半ばに王族のコンティ公がドメーヌを購入したことが『コンティ』という名前の由来です。コンティ公は当時ヨーロッパ有数の美術品の収集家であり、また芸術家のメセナ的な存在でもあったのですね。
 
この音楽祭は、音楽愛好家のワイン製造主が企画していて、『LE PALAIS DES    DEGUSTATEURS』 というCDレーベルまで設立してしまったほどなのです。レコーディングもワインセラーで行なわれます。ワインセラーで……と言うと驚かれるかもしれませんが、本当に素晴らしい音響ですよ。このレーベルから、ジェラール・プーレ、ジャック・ルヴィエとのブラームスのトリオ集がもうじきリリースされる予定です。
 

ワイン製造と音楽作りの共通点

 
A・LB
音楽家として、ワイン製造の世界に共感し、感銘を受けることが多くあります。
 
当然彼らの製造するワインは世界で超一流のものですが、さらにレヴェルアップするにはどうしたらよいかと、製造者の方は常に考えています。
 
彼らは土地に密着して質素な生活を送り、皆が協力的でヒューマニティに溢れています。もちろん競争はありますが、決して足の引っ張り合いではない、とても健康的なものです。なぜなら、皆が予期しない災害のリスクにさらされているから……。そして、自然は人の力でコントロールできないとよくわかっているので、運を天にまかせるという風な大胆な部分もあります。また宴を好み、人生を謳歌することも知っています。このような気質は、彼らの製造するワインに表れていると思います。
 
ブルゴーニュの村は小さく、区画もほとんど隣り合わせなのに、そこから製造されるワインの個性は様々で、これも驚くべきことです。
 
A・M
ブルゴーニュの気候は激しく、土地も岩混じりです。丘続きの土地は起伏に富み、たった50メートルの差なのに、土の状態も日当たりも違います。だから、すぐ隣の区画で同じ方法で製造されていても違ったワインができるのですよ。
 
A・LB
気候や自然を人間の思い通りに動かすことはできません。ワイン製造者は常に気候に耳を傾け、また辛抱強く待つことも知っています。それは、彼らを取り巻く自然の尊重そのものです。
 
私たちが音色に耳を傾け、楽譜を尊重することに似ています。音楽も、自然や気候と同じで生きていて、弾き手がそれを支配することはできませんから。
 
A・M
言うなれば、彼らは常に自然と対話し、気候を聴きながら、ワイン製造という形で演奏しているのだと思います。
 
彼らの人となりは、商売本位のビジネスマンとは全く違います。寡黙な人がほとんどですが、音楽の聴き方は本当に真摯です。彼らの大きな協力は、この音楽祭をフランスで唯一無二の存在に押し上げていると感じます。
 

『モーリス・マレシャルへのオマージュ』

 
船越
今年発売になったお二人のCDの一枚、『モーリス・マレシャルへのオマージュ』。マレシャルは前線で看護士として働きながら、折あるごとに戦友のカプレと共に演奏して、兵士の慰問もしていたそうですね。
 
ブラームスのソナタでは、静かな抑制された表現が、内から湧き出る力をさらに強めているように思いました。次のドビュッシーのソナタの、魂と体が別々になったような焦燥感、続くオネゲルのソナタでの絶えず揺すられるような息苦しさの表現……このCDには1914年に勃発した第一次世界大戦100周年追悼の意味も託されているということですが、戦争の悲惨さに潰されまいとする人間の強さが全体にわたってにじみ出ており、とても心を打つ一枚だと思います。
 
それでは来月に迫った日本でのマスタークラスと演奏会、楽しみにしております。今日は長時間ありがとうございました。
演奏会やマスタークラスで定期的に来日し、その深く優雅な音色でファンを魅了し続けるアラン・ムニエ氏。東京八王子のガスパール・カサド国際チェロ・コンクールで、過去三回にわたって審査委員長を務められたことも記憶に新しい。
 
今回インタヴューに加わっていただいたのは、パリ国立高等音楽院、歌曲伴奏科教授のアンヌ・ルボゼックである。フランスの伝統、「伴奏科」で研鑽を積んだピアニストは、その幅広い才能や深い音楽教養から、室内楽奏者としても人気が高い。彼女も、ムニエ氏をはじめ多くのソリストが絶大な信頼を寄せるピアニストである。
 
音楽を軸としながら、話題は日本文化からブルゴーニュワインまでにおよび、フランス人らしい洞察に溢れる芸術論がお二人から伺えたことも興味深かった。
 
ムニエ、ルボゼック両氏はコンサート、およびマスタークラスのため、
来月12月に再来日。詳細は以下から。
http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/master-class/

インタヴュアー:船越清佳

(ふなこし さやか・ピアニスト・パリ在住)

アンヌ・ルボゼック Anne Le Bozec

 

パリ国立高等音楽院でピアノ科、室内楽科、伴奏科において一等賞を得る。

カールスルーエ音楽大学のリート科にてハルトムート・ヘルに師事し、最高課程(Konzertexamen)修了。

 

同音楽大学で5年間に渡り、ドイツ唯一のフランス歌曲科の指導を務めた。数々の国際コンクールで受賞、

世界各国からコンサート、マスタークラスに招聘されている。

 

アラン・ムニエをはじめ著名ソリストからの信頼は厚く、CDも多数。

現在パリ国立高等音楽院、声楽伴奏科教授。

アラン・ムニエ  Alain Meunier

 

1942年、第2次世界大戦中のパリで男4人兄弟の3番目に双子として生まれる。

 

7歳からチェロを始め、13歳でパリ国立高等音楽院に入学、

15歳で室内楽、16歳でチェロのプリミエ・プリを獲得する。

 

18歳から突如音楽活動を停止し、音楽美学や音楽学などを学ぶが、

22歳で再びチェロを手にプラドを目指し、カザルスの前で演奏する。

 

イタリア・シエナのキジアーナ音楽院に入学し、卒業後、

セルジオ・ロレンツォ主宰のアンサンブル「ピアノ・クインテット・キジアーナ」のメンバーとして活動。

 

24歳からキジアーナ音楽院で教鞭をとり、フランス・リヨン国立高等音楽院の教授を経て、

1989年からはパリ国立高等音楽院の教授として後進の指導にあたる他、

「ボルドー国際弦楽四重奏コンクール」の総裁を務める。 

 

船越清佳 Sayaka   Funakoshi                

ピアニスト。岡山市生まれ。京都市立堀川高校音楽科(現 京都堀川音楽高校)卒業後渡仏。リヨン国立高等音楽院卒。在学中より演奏活動を始め、ヨーロッパ、日本を中心としたソロ・リサイタル、オーケストラとの共演の他、室内楽、器楽声楽伴奏、CD録音、また楽譜改訂、音楽誌への執筆においても幅広く活動。フランスではパリ地方の市立音楽院にて後進の指導にも力を注いでおり、多くのコンクール受賞者を出している。


日本ではCDがオクタヴィアレコード(エクストン)より3枚リリースされている。


フランスと日本、それぞれの長所を融合する指導法を紹介した著書「ピアノ嫌いにさせないレッスン」(ヤマハミュージックメディア)も好評発売中。

CD 「モーリス・マレシャルへのオマージュ」

Edition HORTUS

 

フォーレ、ブラームス、ドビュッシー、オネゲル

チェロ アラン・ムニエ

ピアノ アンヌ・ルボゼック

© 2014 by アッコルド出版

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