top of page

以下の写真は、クリック(タップ)すると、

拡大され、キャプションも出ます。

「中新田」という場所をご存知だろうか。「なかにいだ」と読む。新開地に田圃が広がり、秋ともなれば稲穂が頭を垂れ、案山子の頭上を雀の群れや蜻蛉が舞っていそう。いかにも日本の田園地方を感じさせる地名だ。とはいうものの、地図で「中新田」を探しても、そんな場所は存在しない。平成の大合併で、かつての中新田町は周辺諸町と統合、現在は加美町の東の隅である。
 
宮城県は仙台の先、都市部を除けば圧倒的にモータリゼーションが進んだ21世紀も10年代半ばの日本ではあまり意味のある表現でもなかろうが、最寄りの鉄道駅はJR陸羽東線西古川駅だ。それよりも、東北新幹線古川駅からタクシーで行けるくらいの場所、と言った方が判りやすいかも。
 
年季の入った音楽ファンならば、この町がちょっと話題になったことを記憶なさっているかも。オイルショックで高度経済成長が頓挫した後の停滞感が漂っていた1981年、仙台の向こうの田圃の中に、中新田町が町営の音楽専用ホール「中新田バッハホール」を建てた。まだバブル経済が始まる前のことである。
 
現在の公式ホームページは「国内外有数の音響を誇るクラシック音楽の中でも室内楽に的を絞った、小粒でもピリッと辛い音楽ホール。1981年の開館以来"田んぼの中のコンサートホール"として注目を集め、地方からの文化発信の象徴的存在として全国的に知られている」と自賛しているけれど、パイプオルガンを有する本格的な音楽ホールなど、日本ではやっと数年前に上野学園に石橋メモリアルホールが出来たくらいの頃。
 
無論、大阪のザ・シンフォニーホールも溜池のサントリーホールもない。東北新幹線だって、まだない。そんなときに、田舎町には余りに不似合いなパイプオルガンを備えた豪華音楽堂の出現は、「究極のハコモノ行政」、「パイプオルガンの前でカラオケ大会」、「酔狂な町長の道楽ここに極まれり」等々、中央の週刊誌などに面白半分の記事を散々に書き散らされたものだ。
 
バブル真っ盛りの1989年、中新田バッハホールはサントリー地域文化賞を受賞する
「田圃の真ん中に響くバッハ」が、ポジティヴな意味で語られるようになったのである。
http://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_cca/detail/1989t1.html
このような評価の逆転の背景には、バブル期の民間クラシック音楽専用ホールの出現、税収増に沸く地方自治体に拠る専用文化施設の乱立があったことは言うまでもない。敢えて皮肉に捉えれば、バッハホールの存在はバブル期地方行政の長や議会にとっての免罪符となったのである。中新田のような小さな町があれだけのものを造るのだ、我が県や我が市がもっと立派なホールを持っても構わないだろうに…。
 
それからわずか数年、バブルが弾ける。右肩上がりの経済が永遠に続くと信じた日本国は、社会の在るべき姿を描けぬままに、はや20年が過ぎた。バッハホールのオーナーたる中新田町はなくなり、「加美町中新田文化会館」がホールの正式名称となる(相変わらず「中新田バッハホール」という名称が通称として定着しているようだが)。
 
幸いにしてホールが取り壊されることもなく、地道にきちんと使い続けられてきた。ホールのオープン30年を祝った翌月、東北は未曾有の大震災に見舞われる。宮城県でも内陸部にある建物そのものには、大きな被害はなかったという。だが、この文化施設が文字通りの風雪を耐えた喜びを祝賀する看板は、慌てて「復興」に書き換えられた。
 
 
2014年10月1日、中新田バッハホールを訪れた。30年ぶりのミュンヘン・バッハ管弦楽団日本ツアー、最初の公演を聴くためである。恥ずかしながら、筆者はこの余りにも有名なホールに足を運ぶ機会がなかった。筆者にしても30年来の宿題がやっと終えられるのである。
 
首都圏から最もせっかちにバッハホールに辿り着きたいなら、開館翌年にローカル線を覆い隠す偉容を現出させた東北新幹線古川駅に至り、タクシーを飛ばすがよい。東京駅から3時間弱で「田圃の中の豪華な音楽ホール」に到着してしまう。へえ、バッハホールって、そんなもので行けるんだ、と意外に感じる向きもあろう。
 
リハーサルを見物する約束があるわけでもない、急ぐ理由など何もない筆者は、もう少しノンビリしたルートでも結構。そんなわけで、ホールのホームページの案内に従い、仙台駅から「バッハホール前」までを直接結ぶ路線バスを利用してみた次第。
 
仙台駅西口の巨大なバスターミナルの1番乗り場から、昼間の時間帯は毎時1本程度出発する加美行きバスに乗車。路線バスとはいうものの立派な長距離タイプで、携帯電話充電用コンセントまで装備されている。なんだか遠足にでもいくような気分になってくる。
 
バスは仙台市内を抜け、仙台インターから東北道に入る。20分程快適に走り、大衛インターチェンジで一般道へ。大手自動車会社の東北本社工場があるらしく、出張風のスーツ姿が下車していく。薄が茂るなだらかな丘陵に建つ工場の隣には、立派なゴルフコース。ちょっとビックリな環境だ。そこから先は、秋の東北の田園地帯。刈り入れが終わった田圃の向こうに、赤黄色く染まった柿。その向こうに山形との県境の山々。
 
いくつかの集落を通り抜け、大きな川を渡り…と、橋の欄干に目をやれば、音符が並んでいるではないか。仙台を出て約1時間、鳴瀬川を跨ぎ「バッハの町」旧中新田町に入ったようだ。
 
なにしろ「田圃の中の豪華コンサートホール」である。寂しい東北の初秋、茶色になった田畑が広がる中にぽつんと建つ立派な建造物が目に入るのを期待していたら、なんと旧中新田町でバスが最初に停まったバス停の前には、広大な駐車場とその向こうの大手ショッピングモール。昔は農地だったと思われる区画に平屋の郊外住宅が並び、角にはお馴染みのコンビニもある。
 
数人の乗客のうち、「バッハホール前」なるバス停で下車したのは筆者だけだった。落葉広葉樹の大木が備わる広い庭に車が数台置かれ、奥には平屋から二階屋どまりの住宅が並ぶ。隣には簡素なコーポ。いかにも地方都市の郊外らしい風景だ。そして、巨大な町立体育館があり、今や立派に舗装された昔の畦道を挟んだ反対側が目的地のバッハホール。ホール正面の3本のポールには、おそらくは加美町旗、日の丸、そして黒赤黄のドイツ国旗がはためいている。バイロイトの丘に建つ祝祭歌劇場の前に立ったような感動…と言えばと言いすぎかもしれないけれど、30余年ようやくここまで来た、との思いが込み上げたのは事実である。
 
楽屋口の前は、畦を挟んで周囲に残された最後の田圃。オルガンが収まるホールらしく高い天井が聳える裏は、ホール専用の大駐車場。道を挟んだ町立体育館の裏手には、「東京ドーム1個分」などという形容が頭をかすめる程にも広い一般用駐車場が備わる。ホールよりも体育館に集まる観衆を想定しての設備だろうが、いやはや、東京都心では考えられない車社会の充実ぶりである。
 
ホールや体育館が総合文化地区を形成する一隅に備えられた、町営物産店兼食堂兼案内所に座り込み、新生加美町のもうひとつの名物たる鮎の水槽を眺めながら、オーケストラが到着するのを待つ。鮎たちが泳ぐの隣の壁面には、1981年12月にホールの披露された聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管による《マタイ受難曲》の巨大な白黒ステージ写真が掲げられる。そう、これが、加美町。どうやらオーケストラのバスも到着したようだ。ちなみに、一行の宿泊地は仙台市内とのこと。
 
 
中央にオルガンが聳えたホールは、「残響2秒」を連呼したザ・シンフォニーホール以降の数多「室内楽専用ホール」とは異なり、響き過ぎる空間ではなかった。同じような大オルガンが備わった空間としては、例えば国際基督教大学礼拝堂のような適度に明快な響きの場所である。たしかに今時のホールとすればロビーは手狭だし、あちこちに30年以上の年季を感じさせることは確か。ロビーでなんとなくベルリン・フィルハーモニーのロビーを連想するのは、無骨な柱が理由なだけではなかろう。
 
すっかり様変わりしたミュンヘン・バッハ管弦楽団が奏でるブランデンブルク協奏曲は、やってることはとてもきちんとしているのだけど、実際に耳にするとビックリすることだらけのモダン楽器によるピリオド奏法の音楽。同時期に同じ街から来日していたヘンシェルQのヴィオラ奏者モニカ・ヘンシェルが「ハンスヨルグ・アルブレヒトが音楽監督になって、ちょっと面白いことになってるわよ」とわざわざ連絡してきただけのことはある。この指揮者、要注意だ。
 
中新田バッハホールは、今や「田圃の中の立派過ぎる文化施設」ではない。日本中どこにでもある、「かつてはとても立派だったがちょっとくたびれ始めた地方自治体の総合文化施設」だった。それはそれでいい。なによりも大事なのは、長いコンサートを素直に楽しみ、喝采を浴びる沢山の人々が、中新田の町には当たり前にいること。33年前には、ここにそんな人達はいなかったろう。

仙台駅西口バスターミナル1番乗り場から加美行きバスは出発する。立派なバスである。

第67回

バッハの町

電網庵からの眺望

音楽ジャーナリスト渡辺 和

© 2014 by アッコルド出版

bottom of page