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前回、私はふだんの自分ともう一人の自分がいるのではないか、と書いた。

 

言葉を換えれば、ふだんの自分というのは、表層意識の自分(つまり、ふだん心に思ったり考えたりしている自分である)で、もう一人の自分というのは、深層心理、潜在意識の領域にいる自分である。

 

我々は潜在意識のお世話に無意識的にもなっている。 例えば、どんなことでも練習を重ねることによって、だんだんと無意識にできるようになることは誰もが体験していることだ。

 

自転車に乗る。最初のうちは、転んだりするが、いつの間にか乗ることが出来るようになる。 始めた当初は、ハンドルを持って、ペダルに足を載せて、サドルに乗り……と、一つ一つの動きを意識しているが、そのうち無意識にできるようになる。

 

潜在意識に任せてしまうということだ。 楽器の練習も最初のうちは、一つ一つの動きを意識するが、それが無意識のうちにできるようになるまで練習をする。いわゆる「意識の無意識化」ということなのだろう。(尤も楽器の場合は、意識の無意識化ということは時間がかかる。また、一つのことを習得しても、新たな技術がどんどんやってくるから、なおさら時間がかかるが。)

 

作曲家でヴァイオリニストであった故・玉木宏樹さんは、卓越したテクニックをもった演奏家であった。彼はよく「歌心もテクニックだ」と言われていた。私は歌心は感性であると思っていたから、テクニックと言われて面食らったものだ。今では理解できる。

 

それはともかく、彼は七種類のヴィブラートを持っていたし、ボーイングの美しさも素晴らしかった。心を抉るようなヴィブラートや音色を駆使していたのだが、玉木氏は、時折、演奏していて、ぞっとすることがある、と言われていた。

 

つまり、心を抉るような音を出していながら、その音をコントロールしている冷徹な自分自身にぞっとする、と言われていたのだ。

 

この、ぞっとしている自分はどの自分なのか。おそらくふだんの自分、つまり表層意識なのだと想像する。そして、冷徹な心というのは、実は潜在意識と同じなのではないか、と私は考える。

 

さて、問題はここからである。音楽を演奏するときは、表層意識と潜在意識と、おそらく行ったり来たりするだろうからややこしい。玉木氏も潜在意識に任せていたら、突如、表層意識が、潜在意識の完璧さにぞっとするのである。

 

しかし、おそらく基本的には潜在意識に任せておいた方が、演奏そのものは成功するのではないか、と私は想像する。勿論、意識の無意識化、つまり潜在意識に定着させるまでの練習、訓練は必要だが。

 

そして、ふだんの自分というのはアガリにもつながる。よく言われる無念無想、私自身は、この状態で演奏したいものだと思う。

 

第19回 もうひとりの自分に任せる(その2)

 

今週の青木節 

アッコルド編集長 青木 日出男​​

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