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2013年7月13日、ロストロポーヴィッチ、スターン、メニューインといった巨匠たちの名器のドクターとして、世界的に名を馳せたフランス弦楽器界の権威、エティエンヌ・ヴァトロ氏が、パリ郊外ヌイイ市のご自宅で87年の生涯を閉じた。
 

筆者がパリ8区の「ヴァトロ・ランパル工房」で氏にインタヴューを行なったのは、昨年2012年3月末のことであった。その時の衝撃と興奮は忘れられない。

 

筆者は約束の時刻より30分早く到着したが、扉を開いて迎え入れてくださったのはエレガントなスーツ姿のヴァトロ氏自身であった。「パリは交通事情が悪いので、いつも時間に余裕を持つようにしているのです」とにこやかにおっしゃる氏からは、現役時代からのプロフェッショナルな几帳面さが垣間見えた。

 

かつて俳優を志したという言葉から裏打ちされる語り口の絶妙さ、前に座っただけで圧倒されるようなカリスマとエネルギー……湧き出るエピソードは果てしなく、インタヴューはほぼ2時間に及んだ。

 

20世紀の音楽界と共に生きた巨匠、伝統の証言者が、またひとり去った。
 
これは晩年のヴァトロ氏が応じた、貴重なロングインタヴューである(2012年3月27日取材)。

Hommage à Etienne Vatelot

エティエンヌ・ヴァトロ氏へのオマージュ(1)

 

「音楽家と楽器、そしてフランスの伝統芸術のために」フランス弦楽器界の重鎮

 

 インタヴュアー:船越清佳(ふなこし さやか・ピアニスト)

インタヴュー

マルセル・ヴァトロ(1884~1970)がパリの Portalis通りにヴァトロ工房を開いたのが1909年。当時サン=サーンス、ラヴェルといった作曲家もアトリエへ出入りし、以来同工房はパリの音楽界と歩みを共にしてきた。

 

父マルセルから弦楽器製作の手ほどきをうけたエティエンヌ・ヴァトロ氏は、フランス弦楽器製作業発祥の地、ミルクールで修行し、また修復、鑑定の分野でも研鑚を重ねる。

 

1959年にマルセルより工房を受け継ぎ、彼の卓越したメンテナンスや調整技術、鑑定眼は、多くのソリストを魅了していった。そして口伝に、スターン、メニューイン、フランチェスカッティ、オイストラフ、ロストロポーヴィッチといった世界的巨匠たちが、次々と工房の顧客リストに名を連ねていったのである。

 

それぞれの名器を知り尽くし、冴え渡った耳をもって最高の音色を追及するヴァトロ氏は、マエストロたちにとって必要不可欠な存在となっていく。ヴァトロ氏は彼らが最も信頼をおく友であり、相談相手であった。このようにして、プロフェッショナルな関係を越えた、巨匠たちとのつながりが築き上げられていったのである。

 

またヴァトロ氏は、1960年代にすっかり活気を失っていたミルクールの状況を嘆き、失われつつあったフランス弦楽器製作業の伝統を再燃させるべく、力を尽くした。それは1970年のミルクールの国立弦楽器製作学校創立へとつながっていく

 

ジャン=ジャック・ランパル氏(世界的フルーティスト、ジャン=ピエール・ランパルの息子)を後継者として現役を退き、15年を経た今も、フランス弦楽器製作業の伝統文化を守り伝えていこうとするヴァトロ氏の信念は、まったく衰えていない。終始にこやかながら、そのまなざしには一生をひとつの職業のためにささげた人の強い意志の光が宿っており、今年87歳に達するという高齢を感じさせなかった。

 

折しもこの日のヴァトロ・ランパル工房は電気回線の改装工事中で、インタヴューはランパル氏のアシスタント方が作業中のアトリエで行われたが、ヴァトロ氏の鋭い目が彼らに注がれる時、温かく和むのが特に印象的であった。

 

Rue Portalisには、今でも創業当時からのマルセル・ヴァトロの表札が残されている。

 

参考文献 Jean-Michel Molkhou 「Les grands violonistes du XXe siècle」  Buchet Chastel

 

 

 

 

ロストロポーヴィチの

ストラディヴァリウス『デュポール』

 

船越「ヴァトロさんが親しくしていらした20世紀の巨匠たちの思い出を伺いたいのですが、今日3月27日はロストロポーヴィチ(Mstislav Rostropovitch 1927-2007)の誕生日ですから、彼のエピソードから始めていただけますか?」

 

エティエンヌ・ヴァトロ(以下E・V」「スラヴァ(ロストロポーヴィチ)と出会ったのは、彼の初来仏の1955年ごろ、オイストラフの紹介で彼が工房へ楽器と共に訪れた時でした。素晴らしいチェリストとして、その頃フランスまで彼の名声は届いていたのです。

 

その時の彼が、片言のフランス語で『Difficile, jouer ,violoncelle !(チェロ、演奏、難しい!)』と言いながら、このアトリエで弾いてみせた楽器は――ソ連の国家コレクション所有のストリオーニだったと思いますが……、大がかりな修理を要する、本当にひどい状態でした。演奏は『難しい』どころか『不可能』と思われました。弦の位置も高過ぎ、魂柱も駒も交換しなければなりませんでした。しかも、彼のパリ滞在は3日間のみだというのです。

 

3日後に、大急ぎで修理され生き返ったチェロを試演したスラヴァは『Facile,  jouer, violoncelle !(チェロ、演奏、簡単!)』と喜び、以来私たちは親友となったのです。彼はパリに来る度に、必ず私のアトリエを訪れるようになりました。」

 

船越「ロストロポーヴィッチがストラディヴァリウス『デュポールDuport 1711年』を購入する時、彼の希望で、鑑定の為に、ご一緒にアメリカまでいらしたそうですね?」

 

E・V「ある日、見知らぬ人から電話がかかってきて、楽器鑑定のためにニューヨークに行ってくれと頼まれたのです。忙しいから無理だと言うと、実はこれはロストロポーヴィッチ氏の希望であると告げられ、それならばと承諾しました。

 

パリの空港でスラヴァと落ちあい、ニューヨークへ到着すると、迎えにきた人に連れられてまた自家用飛行機に乗せられ30分から45分ほど飛びましたが、私は一体どこへ連れて行かれるのかわかりませんでした。スラヴァに聞いても『そんなことはどうでもいい、私はこのストラディヴァリウスが本物かどうか知りたいんだ、本物のデュポールかどうか鑑定してくれ』としか言いません。

 

『デュポール』は、ナポレオンが、チェリストのデュポールに、チェロとはどのように演奏するのかと尋ね――当時はエンドピンがなかったので、足の間に挟んで演奏したのですが――、試奏した時に、ナポレオンの軍隊靴の金具の摩擦でできた傷が横板に残っているというエピソードでも世界的に有名ですね。Warburgというアメリカ人のチェリストが所有していたのですが、彼は亡くなる時、『買い手がロストロポーヴィチならば、売ってもよい』と遺言したのです。

 

到着したのはどこか個人所有らしい小さな暗い空港で、古い木のチェロのケースとともに数人が待ち受けていました。テーブルも何もなく、私はチェロのケースを床に置いて開け、四つんばいになって楽器を調べました……素晴らしいストラディヴァリウス、『デュポール』であることは一目瞭然でした。

 

あらかじめスラヴァから、終止無言で本物なら首を縦に、そうでなければ首を横に振るように言われていたものですから、床に這いつくばったまま、指示通り大きく頷いたところで、やっとその場の雰囲気が和んだのです。

 

『デュポール』を抱えて同じ飛行機でニューヨークに戻ると、夜も更けていましたがそのままアイザック・スターンの家を訪れました。彼は事情を知っていて、結果を心配して待っていたのです。

 

『デュポール』には古い弦が張られたままでしたが、アイザックがどうしてもと言うので、スラヴァはそのままの状態で何曲か弾きました。うっとりと聴いていたアイザック曰く、『わかった、もう君とブラームスのダブルコンチェルトは弾かないよ』(笑)。素晴らしい賞賛の言葉だと思いませんか?」

 

 

ジネット・ヌヴーの

J・B・グァダニーニ &

オモボノ・ストラディヴァリウス

 

船越「つらい思い出と思いますが、ジネット・ヌヴー(Ginette Neveu 1919-1949)のお話を。ヴァトロさんは、本来ならば彼女が事故に遭遇した飛行機に乗って、一緒にニューヨークに旅立つはずだったそうですね。」

 

E・V「ジネットは、いつも笑顔を絶やさない、生き生きとしてフランクな女性でした。彼女は父マルセルが製作した楽器を使っていたこともあります。

 

彼女は演奏旅行からパリに戻ってくると、両親に会いに行く前に、まずこのアトリエへ寄って楽器のメンテナンスをしていたほど、私たちは親しい関係でした。

 

彼女の愛器は1730年のオモボノ・ストラディヴァリウスでしたが、このアメリカツアーに出発する前にもうひとつ楽器が欲しいと彼女が言い、父がJ・B・グァダニーニを勧めたのです。これが父が彼女に売った最後の楽器となってしまいました。

 

ジネットは、楽器の調整のため私がニューヨークの演奏会に付き添うことを希望していたので、私は彼女と同じ飛行機の便を手配していました。しかし、彼女がニューヨークでの演奏会の前にセントルイスで予行演奏会を行なうことを決めたので、私は出発日を変更し、船で発つことにしたのです。

 

そしてあのポルトガル領アゾレス諸島での航空事故……飛行機にはエディット・ピアフの恋人であったボクサー、マルセル・セルダンも乗っていました。1949年10月27日のことです。

 

このような事故には伝説がつきもので、墜落現場から程近い山中でヴァイオリンを弾く農夫がいたなどと、様々な噂が流れました。父がジネットのために注文して作らせたダブルのヴァイオリンケースはそれほど損傷のない状態で発見されましたが、ストラドはついに見つかりませんでした。

 

しかし彼女の弓の一本……金べっ甲のHill & sonsは完全な状態でケースの中で発見されたのです。

 

その後、いろいろな偶然の重なりから、事故で失われた彼女のグァダニーニのスクロール部分を所有している方が見つかり――それはあるピアニストの男性で、事故現場の遺品回収に携わったポルトガル政府の一員から、事情を知らないまま、また偶然に貰い受けたということでした――、その方とはあるテレビ番組で初めて対面しましたが、彼の持ってきたスクロールは、ジネットのグァダニーニのものだと一目でわかりました。

 

彼女の思い出が蘇ってきて、私は涙を抑えることができませんでした……」

 

 

オイストラフの

ストラディヴァリウス『マルシック』

 

船越「ジネット・ヌヴーが1935年のヴィエニアフスキ・コンクールで優勝した時の2位が、ダヴィッド・オイストラフ(David Oïstrakh 1908-1974)ですね。彼はどんな方でしたか?」

 

E・V「彼はメニューインの紹介でここへ訪れました。本当に魅力的で心の優しい人だったことを憶えています。

 

彼はまずソ連の国家コレクションから貸与されていたストラド『ユスポフ Youssoupov 1736年』を、その後『コント ドゥ フォンタナ Comte de Fontana 1702年』を使用していましたが、彼が楽器を『マルシックMarsick 1705年』に換えるかどうか思案中に、頼まれてブリュッセルの大ホールでこの2台のストラドを聴き比べたことがありました。

 

彼は私をホールの奥の席に座らせて、いろいろな曲を弾き、そのたびに私に一番か二番かで答えさせるのです。そして、私が選んだのはいつも同じ番号、『マルシック』の方でした。彼も『マルシック』の方が自分に合っていると判断したようです。」

 

 

フランチェスカッティの

ストラディヴァリウス『ハート』

 

船越「ヴァトロさんは、フランチェスカッティ(Zino Francescatti 1902-1991)のストラディヴァリウス『ハート Hart 1727年』をアッカルドへ、またメニューイン(Yehudi Menuhin 1916-1999)の『ソイルSoil 1714年』をパールマンへ、といった名器の受け渡しに関してもアドヴァイスをなさったそうですね。」

 

E・V「偉大なヴァイオリニスト、ジノ・フランチェスカッティは、とても几帳面な人でした。自身の楽器に関しても、できるだけ手を入れさせず、常に同じ音色の状態を保つことを望んでいました。

 

一度駒を交換しなければならないと私が言った時、本当に大騒ぎになりました。それまで修理を重ねていたのですが、このままの状態で演奏を続ければ、コンサート中に駒が割れてしまうような、致命的なことになりかねない状態だったのです。私は心配する彼を何とか説得し、細心の注意を払って同じ木、同じモデルの駒を作りました。マエストロは『ハート』が同じ音色を取り戻したことに、とても安堵していました。

 

ジノはまた大変な完璧主義でした。歳をとってくるにつれて、自分のテクニックや音色が少しずつ衰えていくのを感じた時、演奏を止める決意をしたのです。そしていつか自分のストラドをしかるべき演奏家に、『ハート』の音色にふさわしいソリストに譲りたいと奥様と話し合っていたそうです。相談を受けた時、私にはすぐにサルヴァトーレ・アッカルドの演奏スタイルと、『ハート』の持つ音色から、彼が最適ではと思いました。

 

晩年、彼は南仏のラ・シオタに住んでいて、私は一年に一度は彼の家を訪問していました。行くと、ジノは『彼(ハート)は向こうの部屋にいるよ』と言い、私は楽器の状態を毎回綿密にチェックしました。メンテナンスを終えて居間へ戻ると、ジノが必ず『彼は元気?』と言ったことを覚えています。」

 

 

メニューインの

ストラディヴァリウス『ソイル

 

E・V「ユーディ・メニューインはモーリス・ジャンドロン(Maurice Gendron  1920-1990)からの紹介でした。当時ユーディは妹のヘフツィバー、ジャンドロンとトリオを結成していたのです。

 

ユーディは調整に関して気難しい面はなく、特に心配性でもありませんでしたが、やはり几帳面な人でした。

 

一度電話がかかってきて、『大切なコンサートをひかえているのに、ソイルの具合が悪い、至急ロンドンに来てくれないか』と言われたことがあります。週末だったので『こんなに急では、飛行機のチケットが取れませんよ』というと、彼は『大丈夫、もう手配済みだよ!』(笑)。

 

ロンドンの彼の家には、楽器のメンテナンスのために何度か訪れました。緑のカバーが掛けられたテーブルに、楽器の修理に必要な道具が揃えられており、まるで小型のアトリエが出現したようでしたね。

 

一度だけ――おそらく、彼がハンカチにアルコールをつけて手を拭いた後、それをヴァイオリンと一緒にケースに仕舞ったせいだと思われました――彼が『ソイル』の裏板に白く丸いしみをつけてしまったことがあります。その時は何日もかかりましたが、オリジナルのニスをいためることなく修理することができました。

 

『ソイル』は、全ての弦楽器製作者にとって夢のような名器と言えます。1948年から私がメンテナンスを手がけてきました。私にとっては世界一の楽器です。イツァーク・パールマンへこのストラディヴァリウスが受け継がれたことは、この二人の芸術家双方にとって最高の出来事であったと思います。

 

ユーディは、『プリンス ケーフェンヒュラー Prince Khevenhüller 1733年』というストラディヴァリウスを第2の楽器として使用していました。

 

ある日パリのサル・プレイエルで彼の演奏会を聴いていたのですが、彼がアンコールを弾き始めた時、私は飛び上がって楽屋に駆けつけました。音色がコンチェルトの時と少し違うのです。何か楽器に問題が起きたに違いないと思いました。

 

ユーディはあまりにも早く私が現れたのでびっくりした様子でしたが、私が『音色が違う、楽器にトラブルがあったかと思って』と言うと彼は吹き出しました。アンコールの時に、うっかりダブルのケースに入っていたもうひとつのストラドを持って舞台に出てしまったのだそうです。

 

確かにこの『ケーフェンヒュラー』も素晴らしいヴァイオリンですが『ソイル』に比べて音量の力強さの面では劣っていましたね。」

 

 

スターンの

グァルネリ・デル・ジェス

『パネット』&『イザイ』

 

船越「アイザック・スターン(Issac  Stern 1920-2001)とは家族同様のお付き合いだったそうですね。

 

彼はグァルネリ・デル・ジェスの名器『ヴィコント ドゥ パネット Vicomte de Panette 1737年』と『イザイYsaÿe1740年』の2台を愛用していたそうですね。彼はストラドよりデル・ジェスを好んだのですか?」

 

E・V「彼はデル・ジェスの男性的で太っ腹とも言える音色を気に入っていました。2台のデル・ジェスのうち、音色に関しては『パネット』の方を特に好んでいましたが、『イザイ』の方が弾きやすかったようです。彼が晩年『イザイ』を使っていたのもそのためなのです。

 

彼も楽器の調整に関してはそう気難しい人ではなかったですね。パリでは私に彼の愛器のメンテナンスが託されていましたが、ニューヨークではルネ・モレル(René Morel 1932-2011)というフランス人が行なっており、素晴らしい仕事ぶりでした。

 

アイザックとは1951年に知り合いました。最初の数年間は、このアトリエを訪れるたびに、自分から調整に関する要望を出していましたが、ある時から、『君の好きなように! 私よりよくわかっているでしょう?』と、何も言わずデル・ジェスを置いていくようになりましたね(笑)。

 

全ての巨匠たちの共通点、それは彼らの心の広さ、寛大さです。……そして、彼らの才能、演奏、そして名器の記憶は、私にいまだに深い感動を与え続けてやみません。

 

音楽家との絶対的な信頼関係があってこそ、職人の立場において、ひとりひとりの芸術家の理想とする音色を理解し、共に追求することが可能となるのです。」(「伝統芸術の継承とは」へ続く)

エティエンヌ・ヴァトロ Etienne Vatelot 

(1925~2013)

 

プロヴァン(Provins)に生まれる。1942年より父マルセル・ヴァトロ(Marcel  Vatelot)の工房で弦楽器製作を学ぶ。ミルクールのアメデ・デュードネ(Amédée Dieudonné)、マシー・パレゾーのヴィクトール・クノワル(Victor  Quenoil)のもと、製作、修復分野で研鑚を積む。

 

49年、オランダのデンハーグ弦楽器製作コンクールにて名誉賞受賞。59年より正式に父の工房を引き継ぎ、パリ裁判所付の鑑定人に任命される。66年、フランス弦楽器、弓製作者協会会長に就任。70年、ミルクールに国立弦楽器製作学校を創立。76年、共和国大統領賞受賞。80年から97年まで、工芸職促進会合会長を務める。94年、文化省と産業手工業省より、工芸職議会会長に任命される。

 

マドリッド王宮のストラディヴァリウス四重奏セットを修復した功績により、イザベル・ラ・カトリック勲章を受勲。フランス政府より、文化芸術勲章コマンドゥール、レジオンドヌール勲章コマンドゥール、国家功労勲章オフィシエ、教育功労章などを授与される。

 

エティエンヌ・ヴァトロは、世界中より講演会の招聘を受け、自身の工房で多くの後進の育成にも力を注いだ。また若い弦楽器、弓製作者の活動を奨励するために、「マルセル・ヴァトロ財団」を、パリ市の後援を受けて、国際弦楽器、弓製作コンクール「Concours Etienne Vatelot」を設立。2013年7月逝去。

船越清佳 Sayaka  Funakoshi,Pf

 

岡山市に生まれる。京都市立堀川高校音楽科(現・京都堀川音楽高校)卒業後渡仏。リヨン国立高等音楽院卒。

 

在学中より演奏活動を始め、ヨーロッパ、日本を中心としたソロ、室内楽、器楽声楽伴奏、CD録音、楽譜改訂において幅広い活動を行なう。

 

またフランスではパリ地方の市立音楽院にて後進の指導にも力を注いでおり、多くのコンクール受賞者を出している。

 

日本ではヴァイオリンのヴァディム・チジクとのCDがオクタヴィアレコード(エクストン)より3枚発売されている。

 

フランスと日本、それぞれの長所を融合する指導法を紹介した著書「ピアノ嫌いにさせないレッスン」(ヤマハミュージックメディア)も好評発売中。

ジネット・ヌヴーとマルセル・ヴァトロ

エティエンヌ・ヴァトロさんと船越清佳さん

●上段、左から

 オリヴィエ・シャルリエ

 ゲイリー・ホフマン

 ジャン=ピエール・ヴァレーズ

●中段、左から

 ボリス・ベルキン

 ギトリス

 メニューイン

●下段、左から

 シュタルケル

 ロストロポーヴィチ

 ユーリ・バシュメット

●上段、左から

  フランチェスカッティ

 パールマン

 オイストラフ

●中段、左から

 ナタリア・グートマン

 スターン

 ヴェンゲーロフ

●下段、左から

 アッカルド

 ムター

 シュロモ・ミンツ

左下 アラン・ムニエ

 上 M・ジャンドロン

 右 V・スピヴァコフ

© 2014 by アッコルド出版

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